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加山雄三さんは、若大将シリーズであまりにも有名です。
現在の若い人は知らないかもしれませんが、日本経済がまさに絶頂期の時に銀幕にデビューして、若大将シリーズで自作実演で作って歌った「君といつまでも」は350万枚のメガヒットを記録しています。
若大将の映画のなかで、何でもこなすスポーツマンは最高でした。著者も中でもスキーにはまり現在でもする生涯スポーツになっています。誰しも憧れるスーパースターだったのです。
そんな加山雄三さんの本名、生い立ちを知りたくなり調べましたので紹介します。
- 加山雄三の本名・芸名は
- 加山雄三の父親・上原兼が韓国人・ハーフ説の噂になっていた
- 加山雄三の生い立ち
- 加山雄三の経歴
- プロフィール
- まとめ
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- 大学卒業後はコネで「東宝」へ
- 第二期ランチャーズ結成
- 加山雄三の「ブラックサンドビーチ」をベンチャーズがカバー
- 「椿三十郎」「赤ひげ」黒澤明監督作品に出演
- リゾートホテル経営の失敗で借金20億円
- 作詞家・岩谷時子が加山雄三の母親・小桜葉子の密葬に列席
- 岩谷時子は加山雄三の力になると決意
- 加山雄三は岩谷時子に2週間で15曲ものレコーディングを依頼していた
- 岩崎時子は自身の更年期障害と母の認知症の中で加山雄三の申し出を受けていた凄い人
- 岩谷時子は加山雄三の仕事でノイローゼ状態に
- 無事に難題のレコーディングが終了
- レコーディング終了当日、深夜単身渡米
- 報道陣からも誰からも祝福されなかった結婚
- 岩谷時子に帰国と結婚報告
- 加山雄三は「ぼくの妹に」と「帰ってきた若大将」で借金返済
- 加山雄三はスキー場閉鎖で数十億の借金を完済
加山雄三の本名・芸名

加山雄三の若い頃の画像1966年(23歳)
加山雄三の名付け親は祖母の江間光枯(えまみつこ)
加山雄三の本名は池端直亮(いけはたなおあき)といいます。
加山雄三という芸名の由来は、「加賀(百万石)・(富士)山・英雄・小林一三」から一文字ずつ拝借したものと東宝のデビュー会見で報じられています。
また、若大将シリーズの時期には大学時代の成績が可が山程あって優が3つしかなかったので「可山優三」をもじって命名したと揶揄されています。
慶應義塾大学では成績の評価は「優・良・可」法ではなく「A・B・C」法なのでその説に異を唱える向きもあったといいます。
このように言われたいますが、本当は芸名は「加山雄三」は母方の祖母である青木しのぶ(本名江間光枯)さんによって名付けられています。
姓名判断で縁起がいい芸名をつけてもらったことを加山自身が著書で明らかにしています。
加山雄三さんは、1937年4月11日に生まれています。
生後、横浜市神奈川区幸ケ谷で育つていますがその後大田区の田園調布に移り住みますが、1歳9か月の時に「大腸カタル」に患って自然環境にいい神奈川県茅ケ崎市へ引っ越されたそうです。
そこに加山さんは31歳で結婚するまで、実家のに暮らしています。
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加山雄三の父親の上原兼が韓国人・ハーフ説の噂になっていた

加山雄三の若い頃の画像1961年(24歳)
父親の上原兼さんは当時映画界で活躍されていた大スター。
加山雄三さんの父親は「浅草の灯」「愛染かつら」などの名作出演していた正統派二枚目俳優の上原兼さんの本名は池端清亮さん(いけはたきよあき)。
上原さんは、立教大学に入学していた頃に俳優にならないかと誘われのが、きっかけで映画の世界に入っています。
加山さんの先祖は薩摩藩の下級武士
加山さんの祖父は池端清武さん、その息子が(加山さんのお父さん)池端清亮さん(俳優の上原兼さん)は鹿児島県の出身なのです。
先祖は、薩摩藩下級武士だったそうで、現存する旧薩摩藩城下の下絵には、池端家の屋敷が160坪だっあと記載されており、「池端喜八郎」と言う人物が島津家で「篤姫」(あつひめ)の世話係もしていたそうだす。
父親の上原健さんの池端家は室町時代から名が知られた豪族で、鹿児島県根占に残された平清盛から取った「清」と言う名が多く彫られているとのことです。
母親の小桜葉子さんの曽祖父は岩倉具視
母親の小桜葉子さんの本名は岩倉具子(いわくらともこ)と言います。
小桜さんのひいおじいさんは、何と500円札で有名な明治の元勲と言われる「岩倉具視」(いわくらともみ)公なのです。

岩倉 具視(いわくら ともみ、旧字体: 岩倉 具視、1825年10月26日(文政8年9月15日)- 1883年(明治16年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。
岩倉具視公の次男(第三子)である岩倉具定(いわくらともさだ)氏も政治家で、第4代宮内大臣、貴族院議員。

岩倉 具定(いわくら ともさだ、1852年1月18日〈嘉永4年12月27日〉 – 1910年〈明治43年〉4月1日)は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。岩倉家第16代当主。
弟(加山雄三さんの伯父)は岩倉具顕(いわくらともあき)「パシフィックホテル社長」。
祖母は、旧皇族の東伏見宮依仁親王妃周(ひがしふしみのみやよりひとしんのぅひかねこ)殿下。

依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明治9年〉8月29日 – 1955年〈昭和30年〉3月4日)は、日本の旧皇族。東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令
加山さんの祖母は「松竹」の大部屋女優で「青木しのぶ」名義で活躍された、江間光子さんです。
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母方の祖父は江間俊一「江間式鍛錬方の開発者」で弁護士で政治家
 - 昭和8年(1933年)5月31日[2])は、日本の弁護士、政治家。](https://hiroyukim.com/wp-content/uploads/2024/02/20140112c_color.jpg)
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日[1](1861年6月17日) – 昭和8年(1933年)5月31日[2])は、日本の弁護士、政治家。

江間式鍛錬方の開発者で苦学生のための奨学金制度をつくり、多くの若者の世話をしています。
- 岩倉具視公の次男(第三子)である岩倉具定(いわくらともさだ)氏の
- 五男・岩倉具信(いわくらともあき)氏が
- 江間俊一さんの娘江間光子さんと結婚して、
- 1981年に小桜葉子さんが誕生したのです。
その後、岩倉具顕氏と江間光子さんが離婚して、小桜葉子さんはお母さんの江間さんに引き取られたのです。
そして、生活が困窮を極めたので、生活費を稼ぐために1926年に「松竹鎌田」に入り子役として人気を博したのです。
しかし、10代半ばになると人気が急落して仕事が激減したといいます。
小桜葉子さんは1952年に小笠原プロダクションに子役で入り、「明日天気になあれ」で主演を務めまして、
上原兼さんは、撮影場所で女優の小桜葉子さんと出会い、一目惚れして昭和11年10月に結婚。1936年10月に上原兼さんと結婚し引退しています。
当時二人は上原さん27歳小桜さん18歳。
この写真を見る限りハーフと思うのは当然のような気がします。
美男美女の二人は日本人離れしていたと思います。
身長が高く外国人のような形の深い端正な顔立ちにスラリとした大家であったことから、ハーフ説が噂になっていましたが、それは完全にデマです。純粋な日本人です。
そのような影響で加山さんも韓国人・ハーフ、クオータ―ではありません、純粋な日本人です。
母親の小桜葉子さんは美容体操家で活動。
映画界から、引退していましたが、ご主人が太り始めたことから、 体型矯正のための体操と食事治療法を学ばなれたそうで、さらに独自の工夫を加えた「小桜プッシュ体操を考案し、美容として活動され(お昼のワイドショー」にも出演されてたそうです。)

太る体操・やせる体操―小桜葉子の整美体操 (1967年)
「小桜葉子整美体操教室」を経営されるほか、著書「よりすこやかに」「ふとる体操・
やせる体操」なども出版するなど、勢力的に活動されていましたが、
お母さんは子宮頸がんのため入院中だった小桜葉子さんは、1970年5月12日に消毒賞から来る心不全のため52歳で亡くなられています。
この数年前にスキーの事故で片方の腎臓を損傷、摘出したことから腎機能障害を患い、がんの発見が遅れ、わかった時には既に手遅れの状態だったそうです。
祖父の江間俊一さんの血筋をついでいるからこの美容体操発想も出来たもの納得です。
もう少し長生きしてもらいたかったと思います。
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加山雄三の生い立ち
神奈川県茅ケ崎に引っ越し
加山雄三さんは、1937年4月11日に生まれで生後、横浜市神奈川区幸ケ谷で育つていますがその後大田区の田園調布に移り住みますが、
1歳9か月の時に幼少期に「大腸カタル」に患って、子煩悩の上原さんは、自然環境のいい神奈川県茅ケ崎に引っ越しされたそうで加山さんが覚えていることは、この家の茅ケ崎の家からだそうです。

加山雄三さん1939年(2歳)の頃の画像
(この家は海と茅ケ崎駅の中間あたりにあり平屋の日本家屋で、お手伝いが必ず2人がいたと言う。)
幼少期のころ
加山さんはお父さんの影響で、赤ちゃんの頃から、音楽に親しまれていたそうで、(クラシック・ジャズ)を子守歌代わりにして眠るほど、音楽に親しまれていたそうです。
加山さんが8歳の時に自宅に訪ねてきた叔母さんがオルガンで「バイエルンの74番」を引くのを見てオルガンに興味を持つと、なんと、叔母さんのゆびの動きを見ただけで、「バイエルンの74番」をオルガンで弾けるようにんあったそうです。
また、1950年13歳の時には通学路の途中に、有名なピアニストのレオニード・クロイツァ―さんが住んでいたところから、いつも立ち止っては、レオニードさんの音色を聞いていたそうで、音楽的にとても恵まれた環境で育たれたといいます。

加山雄三の画像1949年(12歳)の時、父、母、妹と4人で
(神奈川県茅ケ崎には、戦前から外国人が多く住んでいたそうで、サザンオールスターズの楽曲にも「ラチエン通りのシスター」とあるように当時住んでいた外国人にちなんだ地名が残っているそうです)
加山さんは、1951年の14歳の時に、レオニードさんにピアノの弟子入りを願い出るのですが、(理由は不明ですが)叶わず、レオニードさんが推薦してくれた別の先生を受けることになっています。
加山さんは少年時代にはさまざまの事を経験されています。
子供のころから、自宅のガレージの一角で発明や実験など楽しまれ
て、11歳の時に数学を習いに行っていた商戦大学の学生に、船の関する本を見せてもらったり、話を聞いているうちに、すっかり船に魅せられてしまい、14歳のときには、自分で原動機付きのボートを制作までしています。
また、茅ケ崎の海で波乗りダイビングをするほか、当時、ほんの一部しか楽しめなかったスキーも習い始めるなど、子供時代を謳歌されています。

加山雄三・越後湯沢のスキー場で
この時代スキー始められているとは、本当に一部の人だけだったと思います。
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慶應高校に入学
高校受験の季節になり、志望校として「都立日比谷高」「早稲田実業」慶應塾高」の三校の学校見学に行きプールが日吉(横浜市)と三田(東京都港区)に二つあること、何となく、伸び伸びした校風が自らに会っていることを理由に慶應高校のみを受験することにしたいいます。
受験校を決めてから半年間は、英語、数学、国語の主要3科目にそれぞれ家庭教師をつけていたことに加え例えば英単語200個暗唱したように猛勉強し、合格をつかみとったのです。
そして、1953年4月にめでたく慶應義塾高校に入学されたのです。
慶應高校時代には、ボクシングやバンドなどを始め、また冬になると海から山に興味関心が湧き移りスキーを始めています。
加山さんは、高校2年生の時、初めてスキー競技大会に出場し、友達と志賀高原の「石の湯スキー場」(1994年、平成6年に閉鎖)に行かれたそうですが、
そこで友達の一人がウクレレを弾くのを聴いて興味をもち、1時間くらいコーチしてもらって基礎をマスターすると、その後、その友人の影響でギターにも興味を持つようになり、質屋で買った500円のギターで練習されたそうです。
加山さんが高校3年生の頃、アメリカでは、映画「暴力教室」のテーマ「ろっく・アランド・ザ・クロック」が、若い世代を中心に大ヒットを記録するほか、エルヴィス・プレスリーがデビューするなど、あめりかん・ロックが世界中で一代ブームとなり、日本でもロカビリーブームが巻き起こったそうです。

エルヴィス・アーロン・プレスリー(Elvis Aron Presley、1935年1月8日 – 1977年8月16日)(42歳没)は、アメリカのロック歌手、ミュージシャン、映画俳優。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている、史上最も売れた音楽家の一人
エルヴィス・プレスリーが生きていたら、加山さんと共演したかもしれません。
慶応義塾大学法学部政治学科に入学
加山さんは少年の頃から船の作る仕事に就くのが夢だっとことから、加山さんは、大学進学に向けて、船舶設計の専攻がある工学部に進学を希望されていたそうですが、最終的に、工学部は成績が不振の為断念し、法学部政治学科に進学されています。
「慶応義塾大学」に入学すると、1957年に20歳の時には同じ大学の仲間と6人編成のバンド「カントリー・クロップス」を結成し、加山さんはサイド・ギターとボーカルを担当されています。
銀座の貸し出しダンスホール、学生パティー、米軍横田基地などで、ウエスタンとロカビリーを主に演奏し、お小ずかいくを稼いだそうです。
加山さんは後に
このバンド体験で、対人関係や社会性をみにつけたりすることができたと、語っています。
(ちなみに、後に「ブルージーンズ」や「ワイルドワンズ」でおなじみの加瀬邦彦さんは当時高校2年生で、加山さんの父・上原兼さんのクリスマスパティーに参加するため、加山さん宅に訪れたそうですが、その際、加山さん達の練習を見て音楽に興味を持ち加山さんからギターを教わるなどで、信仰を深めたのをきっかけにミュージシャンとなったそうです)
加山さんは、加瀬邦彦さんが、74歳で亡くなられた時、口に出す言葉も見つかりませんと嘆いていました。更に加山さんは、「同じ茅ケ崎で育って、幼馴染はお前しかいないんだよと、順番が逆だよ、また音楽を一緒にやろうな」とコメントを出しています。
後の慶應大学時代の1959年にはスキーで念願の国体蔵王大会に出場されています。
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加山雄三の経歴
大学卒業後はコネで「東宝」へ
加山さんは、大学卒業後は、一般企業に勤めようとして、「アサヒビール」や「三菱商事」などの資料を取り寄せていたそうですが、
そのことを、知った親友のバンド仲間の峰岸慎一さん(後に「文化放送」会長)にお父さん(上原兼さんの)コネを使うように言われたそうです。
当初は、そんな気持ちは無かったそうですが、峰岸さんから、
お前が大学でやったことは、スポーツと歌しかねえだろう。それを生かして金儲けして、船を作ればいいじゃないか。
と言われてと、ぐらりときて、芸能界入りを決意されたそうです。
ただ、お父さん(上原健さん)からは大反対されたそうです。その後、何度か言い合いになったそうですが、最終的には許してくれたそうで、1960年4月、加山さんは、「東宝」に入社されたのでした。
当時、加山さんは、ルックスでは二枚目俳優だったお父さんにはかなわないと感じていたことから、
男は顔じゃねえ、心とや体力で勝負だ!
と思っていたと言う。
[若大将シリーズ」で一躍有名に
加山さんは、「東宝に」入社されると同年、「男体男」で映画デビューすると
翌年の1961年には、いきなり、映画「大学の若大将」で主演に抜擢され、映画も大ヒットを記録しています。
すると、その後、この映画は
1961年「大学の若大将」
1962年「銀座の若大将」
1962年「日本一の若大将」
1963年「ハワイの若大将」
1965年「海の若大将」

加山雄三さん、星由里子さん、第1作目(大学の若大将)
1965年「エレキの若大将」
1966年「アルプスの若大将」
1967年「レッツゴー若大将」
1967年「南太平洋の若大将」
1967年「ゴーゴー!若大将」
1968年「リオの若大将」

加山雄三さん、星由里子さん、リオの若大将
1969年「フレッシュマン若大将」
1969年「ニュージーランドの若大将」
1970年「ブラボー!若大将」
1970 年「俺の空だぜ!若大将」
1971年「若大将対青大将」
1981年「帰ってきた若大将」

加山雄三さん、田中邦衛さん、坂口良子さん 帰ってきた若大将
全部で17作品になりますが、最後の「帰ってきた若大将」は加山さんの再ブームに合わせての作品になります。けれど、若大将と言ったら、加山雄三さんのイメージは永遠だと思います。
加山さんには、「ドカ弁」と呼ばれていたといいます。
加山さんは当時「東宝」に入社してから、数年間は砧(きぬた)撮影所まではJR(当時は国鉄)で「茅ケ崎駅」から「小田急電鉄成城学園前」まで電車通勤されていたそうですが、
お母さんのアイディアで、土木作業員が持つような巨大な弁当箱を特産していたことから、「土方の弁当」と言う意味で「ドカ弁」と呼ばれていたそうです。
加山さんは映画にデビューしましたが、それと同時に併用して、音楽活動もしています。
1961年に「東宝」創立30周記念のパーティーの為、プロデューサーの藤本真澄さんから、会社の人間で演奏できるやつを集めてバンドをやれ。映画でも使うぞ。
「東宝」の俳優仲間である、二坪正也さん、津田彰さん、佐竹弘行さん、三木敏彦さん、速水洸さんの6名で、バンド「ザ・ランチャーズ」を結成。
(船が進水することを意味する「Lunch」から命名されたそうです)
このメンバはそれぞれの仕事が忙しくなり、自然消滅されたそうです。
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第二期ランチャーズ結成
加山さんは1963年頃、ヒットアルバムを連発していた、アメリカのインストゥルメンタル・バンド「ベンチャーズ」のエレキギターによるビートミュージックに興味持つようになり、
自身のMCを務めるラジオ番組で、「ベンチャーズ」の曲や、自身のオリジナルエレキサンドを数多く紹介すると、
この番組を、たまたま聴いていた母方の従兄弟で、まだ中学生だった喜多嶋修さんが、加山さん宅を訪問してきて、
(喜多嶋修さんは「ベンチャーズ」のファンだったそうです)
加山さんは、この訪問をとても喜び、一緒にギターを弾くようになったそうで、修さんを通して、修さんの兄・喜多嶋瑛さんと知り合うと、
1964年には喜多嶋兄弟の二人と、修さんの友人の大矢茂さんと4名で、「第二期ザ・ランチャーズ」(加山雄三とランチャーズ)を再結成されます。

加山雄三とランチャーズ
加山雄三の「ブラックサンドビーチ」をベンチャーズがカバー
1965年お正月に「ベンチャーズ」が初来日し、同年7月に2度目の再来日するのですが、
2度目の来日の際には、「加山雄三とランチャーズ」は「ベンチャーズ」と共演を果たし、1週間前に完成したばかりのオリジナル曲「ブラック・サンドビーチ」を披露。
すると、「ベンチャーズ」はこの曲を大変気に入り、自分たちの演奏でシングルをリリースして、この「ベンチャーズ」のカバーによって「加山雄三とランチャーズ」の「ブラック・サンドビーチ」は、瞬く間に世界のエレキ・インストマニアの間に知られることとなったのです。
この頃あたりから、日本でも空前のエレキブームが巻き起こり、このブームに目を付けたプロデューサーんの藤本真澄さんは、さっそく脚本家の田波靖男さん(すべての「若大将シリーズ」で脚本を担当)に依頼し、映画「エレキの若大将」1965年が制作されています。
映画「エレキの若代将」の主題歌「君といつまでも」
1965年に映画「エレキの若大将」の主題歌と発売された、5枚目のシングル「君といつまでも」(1965年12月、加山さん作曲)が350万枚を超える大ヒットを記録しています。
そして、1966年には「第8回日本レコード大賞」の特別賞に輝いています。加山さんは歌手としても絶大な人気を博しています。
「君といつまでも」は「ベンチャーズ」によてカバーされて、こちらも大ヒットされています。
「ベンチャーズ」はこのほかにも、1960年後半から1970年代にかけて、「二人の銀座」(和泉雅子さんと山内兼さん)、「京都の恋」(渚ゆう子さん)「雨の慕情」(欧陽菲菲さん)、「京都慕情」(渚ゆう子さん)など、日本人歌手むけに楽曲を提供して、数多くのヒットを記録しています。
(「ベンチャー歌謡」と呼ばれているそうです。)
「第3期ランチャーズ」を編成
加山さんが「君といつまでも」の大ヒットで、ソロとして忙しくなり、その後「ランチャーズ」としての活動されておらず、喜多嶋修さんが、兄の喜多嶋瑛さんの大学のクラスメイト渡辺有三さんらと共に加山さんから独立して「第3期ランチャーズ」を編成。
同年11月には、ファーストシングル「真冬の帰り道」でレコードデビューをして、ヒットを記録しますが、「ザ・タイガース」を始めとするグループサンズ、ブームの台頭で、エレキブームは陰りが見え始め、以降、これっといったヒット曲に恵まれず、1971年には解散されています。
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「椿三十郎」「赤ひげ」黒澤明監督作品に出演

加山雄三・1962年作品、「椿三十郎」三船敏郎、加山雄三、田中邦衛
加山さんは、「若大将シリーズ」以外でも
1962年「椿三十郎」
1965年「赤ひげ」
などの黒澤明監督の作品にも出演されています。
加山さんは
シリーズがつ頭板ことで、若大将のイメージが強くなって、僕の俳優としの幅がすくなくなっていた気がしたんですよ。
だから、黒澤明さんの映画に出させてもらえた時、初めて「俺はこの世界で頑張ろう」と思えたんです。そこで人生が大きく変わりましたよ。
やっぱり「こんな凄い人が世の中に存在するんだ」っていうね。もう雰囲気からして違う。例えば脚本の読み合わせ、ちゃんと羽織袴や刀を身に着けてから始まるんですよ。
最初からチョンマゲも結って刀も本身をつけて、草薙や足袋を履いて歩かされる。しかも、撮影があろうがなかろうが、朝から晩まで。こんな経験は初めてでした。
と黒沢昭監督作品への出演で大きな刺激を受けたことを明かしています。
リゾートホテル経営の失敗で借金20億円
1965年映画「エレキの若大将」の主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットを記録して、まさに絶頂期、同年に茅ケ崎に開業した。高級ホテル「パシフィックホテル茅ケ崎」。
(自質的な経営は叔父さん(母の葉子さんの弟・岩倉朋具憲さ)で加山さんとお父さんの上原兼さん共同オーナーとして経営に参加していたそうです。)
このホテルは、真っ白な円住をした斬新なデザインの建物に、ドライブイン、ボウリング場、ビリヤード、プール、レンタルウインドサーフィン、ジェットスキーなど様々な娯楽施設が併設された、最先端を行く海辺の高級リゾートホテルとして注目を集めたそうです。
作詞家・岩谷時子が加山雄三の母親・小桜葉子の密葬に列席

加山雄三さんとお母さんの小桜葉子さん1970年(52歳没)
岩谷時子さんは当時、越路吹雪さんのマネジャーを務め名がら、加山さんのヒット曲「君といつまでも」「お嫁においで」「夜空の星」「蒼い星くず」などの作詞を手掛けるなど、加山さんと親交があった作詞家の岩谷時子さんの人生を扱った本
「ラストダンスは私に岩谷時子物語」(岡村恵理さんの著書)によると、
岩谷さんは1970年5月、「東芝レコード」のプロデューサーで加山さん担当だった渋谷守久さんから、加山さんのお母さんの小桜葉子さんが亡くなったことを聞き、
とりあえず近親者のみで密葬をするそうです。僕は行きますけど岩谷さんはどうなさいますか?
と尋ねられると
行きます、渋谷さん、私を連れて行って
と言って、渋谷産と共にタクシーで茅ケ崎にある加山さんの自宅に向かったそうです。
すると、密葬だというのに、取材陣がすでに列をなして並んでいたそうで、
そこへ、加山さんが仕事から帰ってきて、ぎりぎり出棺に間に合い、涙で人前に立てない喪主のお父さんさん)に代わって挨拶を述べると、加山さんに向かって一斉にマスコミのフラッシュがたかれたそうです。
その後、加山さんが、片隅にいた岩谷さんに気付き、
岩谷先生、お忙しい中、母のためわざわざお越しくださって本当にありがとうございました。生前はいろいろとご厄介になりました。
と歩み寄って挨拶されたそうですが、
岩谷さんは、まるでかける言葉が見つからなかったそうです。

岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 – 2013年(平成25年)10月25日)(97歳没)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
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岩谷時子は加山雄三の力になると決意
加山さんに気の利いた言葉の一つもかけてやることができなかったという岩谷さんは
帰り道に、渋谷さんに、
芸能人って可哀そうね
と言うと
渋谷さんは
僕は生まれ変わっても芸能人にはなりたくありませんね
これで万が一、ホテルが倒産したら、マスコミはもっと大騒ぎするのかしら
(加山さんのホテルとして知られている)「パシフィックホテル茅ケ崎」巨額の負債を抱えて倒産する
(マスコミ)の恰好のネタにされるでしょうね。(実質的な経営は、加山さんの叔父さん(小桜葉子さんの弟・岩倉具憲さん)であるものの)結局、あの家の稼ぎ頭は加山さんですかね。彼が一生かけて働いて返すことになるでしょう・・・・でも、20億なんて金、いくら加山雄三だって一生かかっても返せないでしょうよ。若大将シリーズだって、もう一時の勢いはないし。
渋ちゃん、加山さんのことで何か来たら必ず私に教えて。もし私でもできることがあったら協力するから何でも言ってね
と、言い、
渋谷さんも、
わかりました
と、承知し、お二人は、加山さんの力になろうと約束を交わされたのだそうです。
加山雄三は岩谷時子に2週間で15曲ものレコーディングを依頼していた

加山雄三さんと、岩谷時子さん、
それから2カ月ほど経ったある日のこと、岩谷さんは渋谷さんから、加山さんの新アルバムのためのデモテープをうけとったそうですが、なんと、加山さんは、2週間で15曲もレコーディングをしたいと言っているとのことで、
これを聞いて岩谷さんは、耳を疑ったそうです。
(1966年、加山さんがに人気絶頂のときに作られたアルバム「ハワイの休日」でも3週間で12曲だったそうです)
何でも、渋谷さんによると、すでに、加山さんの茅ケ崎の自宅は6千万円で抵当権に入っており、この7月末に、いよいよ「パシフィックホテル」の倒産が明らかになるようで、加山さんは、一家の稼ぎ手として、一生かけて借金を返していく覚悟でいるとのことなのですが、倒産を発表した後、マスコミや債権者から追い立てられることを予測し、一時的にでもにげるため、一カ月半ほどアメリカにひなする計画をたてているというのです。
そのため、出発前にレコーディングを済ませておきたいとのことで、
渋谷さんは、
加山さんのスケジュールの都合でレコーディングは7月25日です。彼は生きていくために仕事をしなければなりません。僕らにできることはこれしかないと思うんです。岩谷さん、お願いします。
と、拝むように手を合わせられたそうで、
岩谷さんも、
そうよね、わかってる。やるわ
と、これを了承したそうです。スポンサーリンク
岩崎時子は自身の更年期障害と母の認知症の中で加山雄三の申し出を受けていた凄い人
岩崎さんは、1年ほど前から「更年期障害」と思われる症状がひどく、頭やめまいに悩ま、されて(当時54歳)、仕事が思うようにできない中、植木等さんのテレビ・ドラマの挿入歌や、「ぴんきーとキラーズ」の新曲などの仕事を抱えていたうえ、岩谷さんのお母さんのお母さんに「認知症」の症状が表れ始め、それまではお母さんが携っていた家事全般を岩谷さんがやらなければならなくなるほど、生活上の負担ものしかかるようになっていたそうです。
(家事をやってくれる人を頼みたいと思っても、他人が家に入ってくることをお母さんが嫌がり、叶わなかったそうです。)
それでも、岩谷さんは、加山さんのちからになりたいと、
今は事情はお話できないんですけど、実はのっぴきならないことが起こってしまって・・・・。本当にご迷惑をかけして申し訳ありません。っ少し〆切を少し伸ばして頂くことはできませんでしょうか。
と作曲家の宮川泰さんやいずみたくさんに仕事を待ってもらうようにお願いすると、
長年コンビを組んできた宮川さんやいずみやさんと信頼関係もあったため、
わかりました。大丈夫ですよ。いつも岩谷さんには僕の方が散々ご迷惑をかけていますから。プロディーサーには僕のほうからうまくいっておきます。
と、担当も皆、寛大にまってくれたそうです。
岩谷時子は加山雄三の仕事でノイローゼ状態に
こうして、岩谷さんは加山さんの仕事にとりかかったそうですが、加山さんのデモテープからは、追い詰められて、苦しい心境が伝わってきたそうで、行き当たりばったりの依頼には、行き当たりばったりでたるしかないと、できたものから、順番に手渡すことに。
ただ、残り4曲となったところで、ついに、言葉が一つも思いうかばなくなったそうで、
渋谷さんがあれこれと曲のテーマを提案して、助け船をでしてくれるも、借り物のアイディアでは歌詞が思い浮かばず、
岩谷さんは、睡眠不足から、とうとう、ひどい肩こりと頭痛に襲われ、さらには、奥歯のかぶせものが取れるも、歯医者に行き時間さえなかったため、ほとんどノイローゼのような状態に陥ってしまったそうです。
そんな中でも、認知症のお母さんは全く娘に同情することなく、毎日夕方6時になると、外食につれだしてもらえるため、支度して待っていたそうで、岩谷さんはそんなお母さんが「おんぶお化け」に見えたそうです)
無事に難題のレコーディングが終了
そんな中で、最後の1曲を残して、LP盤「愛はいつまでも」のレコーディング」が、午前中から始まって、夜中近くまで及ぶと、3曲が翌日に持ち越されることに。
(子に比の前日、加山さんは「若大将シリーズ」第16作目「俺の空だぜ!若大将」のアフレコで喉を痛めてしまい、声がかれていたため)
その一方で、岩谷さんは、帰宅後、朝4時までかかって、ついに最後の1曲を仕上げると、2日目は、正午近くにスタジオに入り、16時に無事レコーディングが終了したのだそうです。
(レコーディングは、まるで綱渡りのようにその場しのぎのやり方だったそうですが、それでも何とか形にできたのは、5年間、数多くの曲を一緒に作ってきたチームワークのなせる業だったそうです。)
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レコーディング終了当日、深夜単身渡米
レコーディング開始から2週間で、無事、レコーディングを終了した加山さんは
皆さんの、このご恩は一生忘れません
いつ帰ってくるんだい?
1カ月半で必ず帰ってきます。僕は絶対逃げませんから
分かってるわ。身体には気をつけてね
は。ありがとうございます。ひとつラスベカスで稼いできますよ!
と冗談を言ってスタッフを笑わせると、その日の23時はつの「パンアメリカン航空」(1991年倒産)でアメリカに立ったのですが、
それから数日後、加山さんの経営するリゾートホテル「パシフィックホテル茅ケ崎」が23億円の負債を抱えて倒産したことが発表されると、やはり、テレビのワイドショーや週刊誌は、さんざん加山さんを叩いたそうです。
これを見た岩谷さんは、「良い時に持ち上げるも、いざとなれば突き落とす残酷な人間性というものをまざまざと見せつけられた思いだったそうです。)
報道陣からも誰からも祝福されなかった結婚
その後、加山さんは、約束どおり、9月半ばに帰国されるのですが、その傍らには新妻である女優の松本めぐみさんがいました。(松本さんとは「若大将シリーズ」での共演で知り合われて、アメリカのロスで挙式されています)
すると、空港には100人近い報道陣が押し寄せ、かやまさんは、初めて「赤坂プリンスホテル」で記者会見を開かれるのですが、報道陣からは、騒ぎの中での渡米に無責任だと言うヤジが飛び交うなど、激しい質問があびせられいます。
(結婚を祝福する者は一人としていませんでした)
岩谷時子に帰国と結婚報告
ご心配おかけしました。これから何年かかるかわからないけど、二人で頑張っていきます。
岩谷さんは、
おめでとう。大変だったと思うけど、ふたりとも元気そうでよかったわ
とふたりを祝福したそうですが。
加山さんからは、
あの「おいつめられて」と言う歌の、岩谷さんの歌詞の、全くその通りになったんですよ
アメリカのローンバインっていう街を二人で歩きながら、やっぱり岩谷さんには予知能力がある。天才だと思いました
と言われたそうです。
すると、岩谷さんは、ふと、
追いつめられて お前とふたり しらない街を 歩いている
(中略)
追いつめられて お前とふたり 風に向かって歩いてゆく
と、自分の書いた詞を思い出したそうで、
加山さんと松本さんの二人に、
嵐が去った朝 どんな風にも負けなかった小鳥の巣が 光の枝に残されていた
昭和四十五年九月 愛をこめて 時子
と、気持ちばかりの結婚祝いと色紙に祝福の言葉をしたためて贈られたそうです。
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加山雄三は「ぼくの妹に」と「帰ってきた若大将」で借金返済
加山さんは、リゾートホテル倒産で、巨額の借金を背負い、さらに最愛なる母親が他界され、どん底を経験していましたが、加山さんは仕事は選ばず、何でもこなしていたといいます。その中で、生涯の伴侶という松本めぐみさんと二人三脚で邁進したのです。
1976年「みごろ!たべごろ!笑いころ!」
1977年「俺たちゃ・なんだい!」

加山雄三さんと田中喜子さん
さらに、
1975年「江戸の旋風」
1976年~1984年「ぼくの妹に」シリーズ
1978年「大追跡」
などのテレビドラマに出演されると、
「ぼくの妹に」シリーズが平均視聴率21.6%、最高視聴率28%という高視聴率を記録して、同シリーズの挿入歌「ぼくの妹に」(加山さん作曲)が15万枚を売り上げるヒットを記録。
この、久々のヒットで1976年の「第27回NHK紅白歌合戦」にも9年ぶりに3回目の出場を果たし、徐々に人気を回復されていました。
映画「若大将シリーズ」再ブレークで借金返済
1970年代後半に、東京の名画映画館で、深夜映画として「若大将シリーズ」がリバイバル上映されるのですが、
加山さんが、全盛期だった1960年代にまだ子供だった大学生たちの間に話題になり、一大ブームが巻きおこったのです。
(1970年前年半、アメリカでは、映画「アメリカン・グラフィティ」が爆発的にヒットしており、これが日本にも広まって1960年代のオールディーズブームとなっているのですが、このことが影響したようです)
すると、このリバイバルの成功で、「渡辺プロダクション」の社長・渡辺晋さんが、「若大将シリーズ」の生みの親、1979年に他界されたプロディーサー・藤本真澄さんへのはなむけとして、
もう一度若大将を復活させる
と、再び「若大将シリーズ」を企画して、同シリーズの脚本のすべてを担当した田波靖男さんに脚本を依頼し、1981年、「帰ってきた若大将」が公開されると、往年のファンを中心に、加山さんは再ブレイク。
加山さんはこの時、すでに、てれびどらまやコンサートツアーなどで復活を遂げていたのですが、この再ブレイクにより、加山さんは見事、10年で借金を完済されています。

加山雄三さんと田中邦衛さんと坂口良子さん、帰ってきた若大将
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加山雄三はスキー場閉鎖で数十億の借金を完済
加山さんは、リゾートホテルでも20億の10年で見事に完済して、今度はまたスキー場経営でも多額の借金をして閉鎖に追い込まれいています。。
加山さんは、1991年、新潟県南魚沼郡湯沢町に総工費100億円とも言われる「加山キャプテンコーストスキー場」をオープンされています。
これが、またしても2011年の東日本大震災の他、若者のスキー離れなどにより経営が悪化し2011年7月に閉鎖になっています。
加山さんとめぐみ夫人の笑顔が最高です。バブルの時のスキー人口は本当に凄かったです。
加山さんは当時
会場以来、赤字続きだった。そこに東日本大震災の影響で運営資金の調達が困難になり、閉鎖することにした。
と、語っているほか、
2012年、「週刊女性」(5月29日)のインタビューで、
(スキー場)20年で数十億円つぎ込んだね。家だけじゃなくて、船も手放したよ。
と、語っていることから、船舶も売却したと報道されたのですが、2015年、「NEWSポストセブン」によると、
ある関係者は
最近、売却したはずの船での遊びをまた満喫しているようです。愛船「光進丸」の甲板で料理をふりまってたり、ヨットレースを開催したりしている
と、証言しているとのこと。
「光進丸」の船体価格は4億円とも言われていたのですが、加山さんの借金は、どう解決されたのでしょうか。
結局、「光進丸」売却ではなく造船所の社長に名義変更されただけのようです。
(2018年4月3日に光進丸は電気系統が原因のようなことで、火災になり燃えてしまいました。加山さんは当日は沖縄でコンサートの為に滞在していて、船には誰も乗っていなかったとのことです。)
「NEWSポストセブン」の記者が借金の真相を聞くべき、加山さんに取材を申し込むと何と、加山さん本人から電話がかかってきたそうで、
借金ならほぼ全部かいけつした。ローンでちょこちょこ払っているけど、最悪な状況から脱し、楽しく仕事をさせて頂いているよ。
とハリのある声で答えられたとのこと。
借金の総額については、
まぁいろいろりゃっやってね・・・
と言葉を濁されたそうですが(記者が尋ねた「数十億円の借金はひていされなかったそうです)
結局、借金して苦労すると責任感が強くなる。人間逃げたら終わりだからね。
試練だと思って、”何クソ!”って土下座してでも乗り越えないと。逃げたらダメ!それがパワフルに、エネルギッシュに生きるコツなんだ。
と、数十億円はあったろう借金はほぼ済んだと、明かされたというのです。
(壮大な借金がむしろ、人生のモチベーションになったと豪快に笑っておられたそうです)
加山雄三さんは、これだけの借金をされて、これだけ強いモチベーションを持っていることは、本当に凄いです。スポンサーリンク
プロフィール

加山雄三1967年(30歳)
- 本名:池端直亮(いけはた なおあき)
- 別名義:檀幸作(だんこうさく)
- 生年月日:1937年4月11日(87歳)
- 出身地:神奈川県茅ケ崎
- 身長:175cm
- 血液型:A型
- 名に歳:
- ジャンル:俳優、歌手、タレント、ギタリスト、ピアニスト、ウクレレ演奏者、画家
- 活動期間:1960年・デビュー
- 配偶者:松本めぐみ
- 家族:上原兼(父)
- :小桜葉子(母)
- :仁美凌(異母妹)
- :池端信弘(長男)
- :加山徹(次男)
- :梓真悠子(長女)
- :池端えみ(次女)
加山雄三の家族・親族
父・上原兼(うはらけん) 俳優・1909年~1991年(82歳没)

父、上原兼さん
母・小桜葉子(こざくらようこ)女優・1918年~1970年(52歳没)

母、小桜葉子さん
妻・松本めぐみの馴れ初め
松本めぐみ・プロフィール
- 生年月日:1947年2月9日
- 出身:大阪府
- 身長:158cm
- 所属:元東宝テレビ部
- 活動:元女優
日本音楽高校在学中にオーディションに合格して、松下電器のCMガールに選ばれたことをきっかけに芸能界デビューします。
1964年に東宝テレビ部と契約して、代表作は1966年に放映された学園ドラム「これが青春だ」です。
松本めぐみさんは、一時期歌手としてもかつどうされていたそうです。
シングル「愛のくちづけ/スプーン一杯の恋」とアルバム「信じよう若さ/遠くから」をリリースしています。
以降、多くの映画やドラマで活躍していましたが、加山雄三さんと結婚して、芸能界から引退しています。
加山雄三さんとの出会いは、1965年の第6作品の映画「エレキの若大将」です。
ヒロインは星由利子さんで、松本めぐみさんは「規子」という役名で、「アイビーシスターズ」というガールズバンドのドラムの役でした。

松本めぐみさん(18歳)エレキの若大将出演。
それは、待ち時間の時めぐめさんが加山さんの隣に座った時に、なのか話さなきゃいけないと思って、
「この世界は悪いヤツが多いから、気を付けたほうがいいよ」って
言ったことは覚えている。
また、ある時は松本めぐみさんは言われて、
「撮影所にはね、人がいっぱいいるから、送ってあげるよって言われても、簡単に車に乗って送ってもらっちゃあだめなんだよ」っていってくれたんです。
松本めぐみさんは「この人は良い人なんだって思いますよねえ。そういう感じ乗りでしたと。
2人は交際を始めますが、2人ともスターだったため、外でデートすることはほとんどできず、加山雄三さんの茅ケ崎にある自宅か、加山さんの船「光進丸」でデートしていたそうです。
加山雄三さんが、さらに松本めぐみさんに惚れたのは
加山さんは女性を船に乗せないのは、「女性は舟酔いするから」と言う理由でのせない方針でした。
しかし、松本めぐみさんは船酔いすることなく淡々と編み物をしていて
、その姿を見て加山さんは恋心を抱いたそうです。
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加山雄三・松本めぐみさんへのプロポーズが話題に
加山雄三さん自身も経営に参加していた、リゾートホテルの倒産が確実と言われるなかで一時的に単身渡米したのです。アメリカ(ロスアンゼルス)に渡っていました。
加山さんは松本めぐみさんに電話をかけて、

こちらロスアンゼルス来ないかと言ったら、
めぐみさんは、

これからヨーロッパに行くのといった。
加山さんは、なんでだよと、不満げに言ったあと。

「それじゃあと、ローマのコロッセオで待ち合わせしよう」
と、言っていたけど、内緒でローマ空港まで迎えに行って待っていたら、メディア方々一緒にも沢山おりてきて降りてきたので、加山さんはまずいとホテルに引き返ったそうです。
又、出直してきて、コロッセオで出会えたのでした。そしてその晩、加山さんは松本めぐみさんにプロポーズしたと言います。
松本めぐみと加山雄三はパリでウエディングドレスを買いロスで挙式
ローマでプロポーズを受けた松本めぐみさんは、加山雄三さんと一緒にアメリカに行き、1970年9月4日にロスアンゼルスで結婚式を挙げています。
二人は結婚式を挙げた後、アメリカのアリゾナに新婚旅行に出発。現地ではハーレダビットソンを買って、2人でツーリングをしたとのことです。
新婚旅行を終えた2人は日本に帰国しますが、空港には100人近い報道陣が待ち構えていて、そのまま赤坂プリンスホテルで記者会見を開くことになりました。
(前に紹介した通りでここでまた重複なります)
空港には100人近い報道陣が詰めかけていた。赤坂プリンスホテルで、初めて記者会見が開かれ、加山には厳しい詰問が浴びせられた。騒ぎの最中の渡航に、無責任だというヤジは飛んでも、誰ひとりとして、結婚を祝福する言葉をかける者はいなかった。
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不遇の時代を支えた松本めぐみ

加山雄三さんと松本めぐみさん、新婚当時
新婚時代は松本めぐみさんは必死に加山雄三さんを支えたといいます。
加山さんは当時、お金のない新婚時代は小さなアパートに住んでいて、夕食は二人で、卵一つを二人で分け合って食べたいたこともあったと話しています。まさにどん族の経験もされていたんですね。
しかし、松本めぐみさんが妊娠して第一子が誕生してからは、「こいつの為に、俺は絶対に俺は生きなければばらない」と意識が変わり、生活も変わっていったそうです。
そのような加山さんを見て、松本めぐみさんは自分の貯金を切り崩して、加山雄三さんにピアノをプレゼントしました。
そのピアノで作られた曲が50万枚のヒット曲になった「海その愛」です。
松本めぐみさんの支えもあり、加山雄三さんは、借金を10年で完済されたのです。
加山雄三さんは、松本めぐみさんについて、次のようにかたっています。
カミさんがいなかったら今の俺はないですよ。俺みたいなどうしようもない人間をよくぞ操縦してくれたと。理屈とか技じゃなく、彼女は本心で動いてるから、真実ほど強いものはない。それでうちのお袋と非常に重なる部分があるんです。
本当に、松本めぐみさんは、加山雄三さんの手となり脚となり、素晴らしい女性だと思います。
人生のどん底で、ついてきて支えていた松本めぐみさんの人柄の玉本だと思います。
加山雄三さんは本当に良い伴侶を得たと思います。
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加山・めぐみ夫妻の4人の子供たち
松本めぐみさんは、4人の子供を出産しています。実はめぐみさんは8回妊娠しましたが、4回流産されていたそうです。
4人の子供さんを紹介します。
長男:池端信宏(いけはたのぶひろ)
- 生年月日:1972年7月4日
- 出身地:神奈川県
- 学歴:アメリカ・ソルトレイクシティ・ハイランド高校卒業
- 大学:ソルトレイクシティ・コミュニティ・カレッジ大学卒業
大学在学中はサークルで花火を打ち上げたり、ユタ州で花火師の資格を取得。
信宏さんは、慶応義塾幼稚舎・普通部を卒業ご、高校はアメリカに留学されて、1998年にソルトレークコミュニティカレッジを卒業しています。
作曲家として活動するだけではなく、花火演出家・映像作家としても高い評価を得ているといいます。
2016年野リオデジャネイロオリンピックの閉会式「フラグハンドオーバーセレモニー」では花火の演出を担当しています。
次男:加山徹(かやまてつ)
- 生年月日:1975年8月8日
- 出身地:東京都
- 身長:172cm
- 血液型:O型
- 職業:俳優
加山徹さんは、以前は「山下徹大」名義で活動していた俳優で、2019年に加山徹に改名して、現在は加山徹として活動しています。
そこで、私はこの方がまだ元気で現役を貫いている今この時に自らの決意を持ってある自分の望みを伝えたいと思い、昨年2018年の夏に父の元へ行き、こう言いました。
「あなたの名前を継がせてください」
返ってきた言葉は
「ああ、もちろんいいさ!」
現在はドラマや舞台を中心に、俳優活動されています。
長女:梓真悠子(あずさまゆこ)
- 生年月日:1976年7月26日
- 出身:神奈川県
- 慶應義塾大学文学部卒業
- 活動:タレント・料理研究家
長女の真悠子さんは幼稚舎から慶應義塾大学生の時にスカウトされ芸能界デビューしました。
1999年に百貨店勤務の一般男性と結婚し2人の男の子を出産しますが、2011年に離婚しています。
金ねんは芸能活動もほとんどさておらず、依然行っていたクッキングサロンも開いていないようです。
次女:池端えみ
- 生年月日:1978年3月28日
- 出身地: 東京都
- 学歴: 慶應義塾大学卒業
- 在住: アメリカ合衆国ニューヨーク州
- 身長: 160 cm
- 血液型: A型
- 職業: 女優
池端えみさんは2000年前半に芸能活動されていましたが、現在はドイツ人のダニエルさんと結婚して、ニューヨークに移住しています。
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加山雄三と松本めぐみは孫が4人
加山さん夫妻は一時「別居」と言われ仲が悪くなったのではと、言われていましたが、多額の借金をしていましたが、完済したことで余裕ができたため、40代の頃にニューヨークから少し離れたところに家を購入したという事です。
めぐみさん:「主人はアーティストですので、日本や世界中で仕事があるとみなされているから、その収入を申告してしっかり税金を納めればいいんですが、私は妻ですから、半年以上アメリカに滞在しなければいけないというルールがある。それを守らないとグリーンカードを剥奪されてしまうんです」
グリーカードを維持するためにには最低でも半年はアメリカに住んでいる必要があるため、妻のめぐみさんはアメリカに住んでいると言う。
めぐみさんは「この時期が日本の確定申告なので、日本にいるんです。行ったり来たりで、1年の半分はアメリカにいますが」と、別居を認めた。
松本めぐみさんと加山雄三さんの二人は別居を認めていますが、決して仲が悪いのではなく、将来の事を考えた決断だったのです。
加山さん・めぐみさんの現在の二人は・孫は4人

加山雄三さん、松本めぐみさん、「徹子の部屋」
作曲や絵画など創作活動を続けるも、人前で歌うことは引退した加山雄三さん。2023年9月12日放送のテレビ朝日「徹子の部屋」に出演し、妻・松本めぐみさんとの自宅生活や子供と孫について告白。
冒頭では2020年の小脳出血を振り返り、妻・松本めぐみさんとの会話が一番のリハビリになったと話しました。
加山雄三:「これが何よりですよ。(妻は今) 元気ですよ。もうやたら元気でね、半分元気をもらっているようなもんでね、向こうは年が若いですからね。だからね、あーだこーだ言われるけども、言われた通りおとなしくってことで “はいっ“ ってできるだけ聞いてるんですよ。」
加山雄三さんにとって素直に受け入れることが夫婦円満の秘訣とのこと。そんな加山雄三さんも元気で、2023年8月には「飛鳥Ⅱ」というクルーズ客船に船長の装いで乗船。
加山雄三:「(今は) 時間がありすぎちゃって。絵を描くことが多いんですよ。自画像は難しいんですよ。良く書きすぎちゃいけないしね (笑)」
番組では自画像が公開され、見事な腕前を披露。このほかには子供や孫たちも含め、家族で軽井沢へ旅行したことを明かしています。
加山雄三:「楽しいですよそりゃ。アメリカに住んでる娘がいますから、日本に来てる時に “じゃ軽井沢に行こう“ って、いい時間を過ごしたんですよ。」
加山雄三さんには孫が4人おり、料理研究家の長女・梓真悠子さんの息子2人は成人。女優の次女・池端絵美子さんの娘2人はまだ小さいと紹介されています。
加山雄三:「孫が4人もいるもんなぁ。 みんないい子に育ってんだ。うちのかみさんがえらいからね、はい、はい (笑)」
妻・松本めぐみさんの幸せが自分の人生の幸せだという加山雄三さん。自宅では夫婦ともにおしゃべりなのだとか。
加山雄三:「めし食う時も一緒でね、今もケアハウスで、できた食事を持ってきてくれる。4種類、選べるようになっててね。」
施設の料理はとても美味しく、妻・松本めぐみさんも作らなくていいので喜んでいるとのこと。
2020年8月に加山雄三さんは、脳梗塞で緊急搬送されたことがきっかけで、今まですんでいた、世田谷区の高級住宅地にある自宅に生活していた加山雄三さんですが、2019年末から自立型ケアハウスに引っ越して再び一緒に暮らし始めていることを明らかにしています。
加山雄三さんと松本めぐみさんが現在暮らしているケアハウスは中央区にある「自立型ケアハウス」と呼ばれる「サンシティ銀座EAST」だと特定されています。
加山雄三さんが現在住んでいると思われるケアハウス「サンシティ銀座EAST」は頂上31階建ての高層マンションです。
場所は東京都月島にあり、元より駅は大江戸線「月島」駅から徒歩5分の好立地です。
室内は豪華で、個室から東京タワーなどの絶景が見られ、ウォーキングプールまで備え付けられて、聖路加病院や国立がんセンターなど医療施設が充実している場所だと言えます。
そんな凄い施設の入居費用は、高級と言われるだけあって億越えとと噂されています。
もちろん、間取りやサービスなどにより、入居費用は異なるようですが、
【2人入居の場合の費用の初期費用】
入居一時費用:5510万~1億6800万円
健康管理:1100万円
【2人入居の場合の費用の月額費用】
月額費用:40万円4800円
食事:19万7400円
となるようで、入居費用は億越えする可能性はあることがわかります。
この「サンシティ銀座EAST」は加山雄三さんと松本めぐみさん夫妻にふさわしい物件だと思います。
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まとめ
加山雄三さんの本名は池端直亮(いけはたなおあき)です。
加山雄三さんの芸名はおばあさんの江間光子さんによて名付けられています。
姓名判断で縁起が良いと理由で付けられたそうです。
加山さんの韓国人説はありませんでした。又ハーフ説に関しては、ご両親があまりにも堀が深い美男美女の観点から、ハーフ?と思われていた節があります。
これもデマでした。ご両親、加山さんとも純粋な日本人です。
加山雄三さんは、幼少期から恵まれて、育ってきました。中学生、高校生とさらに何事にも貪欲に興味を持ちさらにものにしています。
そして、多額の借金さえも跳ねのけてきました。何たる向上心とメンタルの強さがどこから来るのか。また、
加山さんが、どんぞくの時に求婚され、それを受け入れためぐみ夫人の懐の太さ、この旦那にあって、このめぐみ夫人の大きな愛に支えられたことも大きと思います。
もう一つ忘れられないのは、加山さんに手を差し伸べた、岩谷時子さんの存在が加山さんの人生には欠かすことのできない人だと思います。
最後までご覧くださりありがとうございます。
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