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みのもんたさんは文化放送の深夜放送番組の「セイヤング」初代パーソナリティーを務められ、人気を博してきました。
その後、文化放送退社後は、フリーアナウンサーとして「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」のナレーションで再度人気を博しています。
司会者として長年多くの番組に出演し、「一週間で最も多く生番組に出演する司会者」としてギネスブックの登録されています。(その後、ロシアの番組に抜かれたといいます。)
みのもんたさんは、様々なことが起こっています。まさに紆余曲折の人生を歩んできています。
そこで、今回、みのもんたさんの本名と生い立ち・韓国人説を徹底調査して見たので紹介します。
- みのもんたの本名・芸名の由来は?
- みのもんた韓国人・ハーフ説の噂って本当?
- みのもんたの生い立ち・家族
- プロフィール
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みのもんたの本名・芸名の由来は?
みのもんたの本名は
みのもんたさんの本名は御法川法男(みのりかわのりお)といいます。
お父さんが、宮城県栗原市出身だそうですが、現在宮城県には「御法川」姓はほとんど居られないようです。
栗原市は宮城県の最北部で秋田県境と接しているので、元々は秋田から来たといいます。
秋田市に在住の大凧(おおだこ)の制作者で御法川克己さんと言う方が居られるようです。
特に由緒正しいという訳ではなく、現在の秋田市の地域に、かつて「御法川」という地名があったことによる、地名由来の苗字のようです。
みのもんたの芸名の由来
芸名の由来・芸名の名付け親は野末陳平氏
由来は当時、御法川を略して「みの」と呼ばれていて、申年生まれ(monkey)でかつ猿顔であることと。当時人気があった競走馬「モンタサン」に掛けて、「もんた」として、「みの・もんた」つなげて、「みのもんた」としたのです。
野末陳平さんは放送作家時代に「御法川法男」(みのりかわのりお)に「みのもんた」と言う名の芸名を考案されたといいます。
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みのもんた韓国人・ハーフ説の噂って本当?
「みのもんたさんは」本名が御法川法男(みのりかわのりお)で、出身が東京都世田谷区なので、在日ではなく正真正銘の日本人です。
したがって、韓国人と言うのは噂にすぎませんでした。
みのもんたさんは純粋の日本人です。韓国人・ハーフではないです。
では何処から、このような噂になっていたかを、紐解いてみたいと思います。
何故、此の話が出た背景は知らんが、みのもんたが竹島関連で口走ったから韓国が同胞と
と言ったかもしれないなと見る。
11月10日にAbemaTVで放送された『よるバズ!』で徴用工や米中間選挙について触れて、みのもんたさんの発言が問題になって「バズ」っています。
みのもんたさんが「僕なんか正直に思うんだけど、朝鮮半島と日本が戦争したということは事実だからね」
松川るい⇒「していないですよ!」
武藤正敏⇒「せんそうじゃないです。植民地支配です」
松川るい⇒「戦争はしていないですよ!戦争をしたいことにしたいのは韓国の方ですけど、日本とたことは1回もありません!」
金 慶珠(沈黙…苦笑い)
日本と韓国(朝鮮)は戦争はしておらず、それを訂正。しかしみのもんたさんは「いやでも戦争ですよね。
ちょっとおかしいのは朝鮮半島を植民地にして日本が統治した。仲間同士だろ?
仲間同士でお金のやり取りがあったって事実だろ」と発言。
- 鳩山邦夫氏は「目の前の人間が喜びそうなことを口走る」 みのもんたは「目の前の人間が少し驚くようなことを口走る」 というくせがあるように思います。
- みのもんたは無茶苦茶右翼的なことを口走ることもよくあります。
- テレビタレントとしての人気を維持するための彼なりのバランス感覚でしょう。
- あの人に何らかの思想があるとはあまり感じません。
みのもんたさんは、韓国を擁護する発言をしているようにとられて、この番組でも同胞と発言しています。
このような経緯で、在日韓国人じゃないかと言われたのが、噂になっていると思われます。
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みのもんたの生い立ち・家族
みのもんたさんは、東京都世田谷区祖師谷出身です。
世田谷区の中では西北部にあり、杉並区に近い方にあります。
幼少時、伯父が森繁久彌と一緒に芝居をしていた関係で、世田谷区自宅の離れに森繁が下宿していたことがあり、森繁の出演する映画のチケットを貰ってよく見に行っていたという。小学校に入学したころには既に映画や芝居に興味をもっていたといいます。
「柔道一代」などの映画の撮影を御法川家で行っていたことがよくあったといいます。
みのもんたさんは自宅は、映画で使うぐらいだから、いかに広い自宅に住んでいたか伺われます。
父親は、水道メーター製造販売会社「日国工業」(現ニッコク)創業
お父さんの名前は御法川正男(みのりかわまさお)といいます。
みのもんたさんは、3人兄弟の次男として生まれています。兄は3歳の時に亡くなられています。下に妹がいます。
みのさんが生まれる前月(1944年7月21日)その通夜の席に父親への召集令状が届いており、みのを妊娠し身重だった母はそれ以降途方に暮れ、ただ国を呪ったという。父は終戦後戦地から無事に戻ったが、母の戦争に対する怒りは終生変わらなかったといいます。
みのさんは、立教大学硬式野球部で活躍しいた「立教三羽ガラス」(長嶋茂雄さん、杉浦忠さん、本間屋敷錦吾さん)に憧れ、立教中学校から、エスカレーター式で進学したそうです。
大学では、放送研究会に所属して、ラジオドラマを制作されています。
ある日、ものさんは同じ放送研究会出身で、みのさんより4年先輩の徳光和夫さんがアナウンサーになったことを知り、放送研究会の仲間と共に日本テレビに徳光さんを訪ねたそうです。
その際、徳光さんから、
これからはテレビの時代だ。アナウンサーは最高だぞ。君たちはそういう志をもっていないのか?
と言われ、共感すると、(当時、東京オリンピックの影響で、一般家庭にテレビが普及し始めていた時代)
スタジオ見学にもつれて行ってもらい、美空ひばりさんなど当時の大スターをまじかに見て感動したそうです。
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200倍の難関を突破して文化放送へ入社
みのさんは、徳光さんがいる日本テレビを受験しょうとしましたが、その年は日本テレビは採用試験がありませんでした。
そして、奥さんの助言で、ラジオの文化放送の採用試験を受けると、200倍の倍率でかつ抜いて合格したそうです
(受験者600名のうち、合格者はみのさんを含め、たった3人だったそうです。)
そして、みのさんは1967年、22歳の時に、文化放送に入社されたのです。
(ちなみに、みのさんはTBS(東京放送)にも採用試験を受けていますが、不合格になっています。その特にTBSに合格したのが、久米宏さんを、長年のライバルとして意識していたそうです。)
1969年に文化放送に入社すると、研修期間中に、同じフジサンケイグループの参議用新聞社に通い、新聞原稿をラジオニュース用に原稿を書き変える仕事をすると・・・
全く使い物にならず、「ニュースには向かない」と言われてしまったそうです。
「セイ!ヤング」で人気パーソナリティに
ただ、芸能を担当するようになり、深夜ラジオ放送「ゲリラでいこう」で、初めてのレギュラー番組を担当すると、たった15分と言う短いトーク番組だったにもかかわらず、ぶっつけ本番のトークが評判になったそうです。
1969年24歳の時には深夜ラジオ番組「セイ!ヤング」の初代パーソナリティに抜擢されると、その軽快なトークが若者のこころの心を見事につかみ、一躍人気パーソナリティーとなっています。
(「セイヤング」は、当時同じ時間に放送されていた裏番組「オールナイトニッポン」「パックインミュージック」と共に”深夜放送全盛期”の時代を支え”深夜放送御三家”と呼ばれていたといいます。)
この時代は、著者も青春時代でした。「セイヤング」「オールナイトニッポン」よく聞いていました。みのもんたさんが初代のパーソナリティーとは思わなかったです。
文化放送と同じフジサンケイグループに所属する、フジテレビ番組にも出演するようになって、バラエティー番組「オールスター水泳大会」で人気を博しついにアナウンス部長名でなっています。
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「セイ!ヤング」降板
しかし、1973年、28歳の時に番組の若返りの理由に「セイヤング」のパーソナリティーを登板させられて、人事異動でまさかの営業部への配置転換。
営業部ではラジオスポンサー企業の販売促進に協力するようにと、スーパーでの店頭販売をさせられたそうですが、ラジオの人気パーソナリティーとして活躍ていたみのもんたさんには、プライドを引き裂かれる日々だったそうで、
そのため、仕事が見に入らず、商品が全く売れず、営業成績の悪さを指摘される悪循環となると、
アナウンサーで調子こいてるからこうなるんだ
とパーソナリティーだった頃を疎まれ、陰口が聞こえてくることもあったそうで、
このような生活が6年続き、会社を辞めようかと悩むも、家族がいるため、思いとどまっていたそうですが、ついには、社内に自分の居場所はないと感じ、1979年、34歳の時、文化放送を退社されたのです。
父親の経営する水道メーター製造販売会社で10年間営業
みのもんたさんは、文化放送退社された後は、お父さんが経営する水道メーター製造販売会社「日国工業」(ニッコク)に入社して10年間全国をで営業周りしていたそうです。
みのさんは、当時を振り返り、
僕は好か不幸か30代前半で文化放送を辞めざるを得なくなって、当時従業員18人の「ニッコク」の営業10年間はしり回りました。
今でもメーターを自分で組み立てられるし、図面も描け上場会社は楽に仕事を取っていくのに、こちらは頭をペコペコして・・・「何クソ!」と思いました。
銀行にお金を借りるために逗子にあった自宅を担保に入れて、すべてをなくすかもしれないと思った事もあります。その借金を返し終えた時の登記簿はいまでも記念にとってある。
と語っています。
みのもんたさんは、この時代は大変な苦労をされていたんですね。
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みのもんたさんは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で再ブレイク
1979年に文化放送を退社した後は、お父さんが経営する水道メーター製造販売会社「ニッコク」で営業周りをしていましたが、
そんな中、フジテレビから声を掛けられ、1980年、「プロ野球ニュース」の中のワンコーナー「珍プレー」(不定期)でナレーションを担当するようになったそうです。
また、フジテレビでは、雨がふって野球が中止になった際にもともとメジャーリーグを流していたそうですが、それが英語の実況だったため、みのさんは、何が何だかわからず、その映像に合わせて内輪で適当に声を充て、(スポンサーがサントリーだったことから)缶ビールを飲みながら、今では絶対に言えないようなことをばんばん言っていたところ、これが視聴者の大うけしたそうです。
19873年11月には、この「珍プレー」が、「プロ野球ニュース」のワンコーナーから、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」として特番化しています。
すると、初回から高視聴率を記録したそうで、みのもんたさんは、ナレーションで笑いを誘うという演出を確立し、一躍、ブレイクを果たしたのです。
「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」は毎回高勝率を記録
その後、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」は1985年に2回の特番となり、1987年からは、司会が(プロ野球ニュースと同じ)佐々木信氏から、島田紳助さん、坂東英二さんの2人体制となっているのですが、ナレーシヨンは引き続き、みのさんが担当すると、毎回、高視聴率を記録しており、
コラムニストのナンシー関さんは、
100%純正のみのもんたの結晶
形がない。まるでフリージャズ
と、みのさんのナレーションを絶賛しています。
(他局でも、これをマネて、同じような企画の番組が放送されたそうです)スポンサーリンク
シンプルな言葉と緩急で巧みな人物の心情を表現していた
みのさんの「さぁいらっしゃい」「アァッ! もうやめてっ!」
「俺を誰だと思ってるんだ」「星だぁ~」などシンプルな言葉で緩急つけて巧に人物の心情を表し、映像を引き立てるのですが、
みのさんは、
珍プレがなんで面白いのかっていうと、やっぱり選手がマジメに一生懸命やっているから余計に面白いんだよね。あれは狙ってできるものじゃありませんよ。
瞬間瞬間にその選手の気合と、素質と、やる気、そんなものが体ごとぶつかって生まれる。そういう姿が人間として共感できるから面白いんだよ。
だから僕もその瞬間の言葉をぶつけてきました。当時は自在に反応ができてきていましたから。今も「ナゼやらないんです?」と言う声を頂きますが、僕は「できないからです」と正直に答えています。
もう反射神経が鈍っちいましたからね。ただ、珍プレーは僕だけのものじゃない。いろんな人のいろんな形があっていいんです。主役はあくまでも選手のプレー。楽しみ方はひとつじゃありませんからね
と語っています。
「午後はOO思いっきりテレビ」は20年に渡る長者番組に
みのもんたさんは、1989年、45歳の時にお昼の情報番組「午後はOOおもいっきりテレビ」(日本テレビ)の総合司会に抜擢されています。
(当初は歌手の山本コウタロ―さんが司会を務めていましたが、降板することになり、みのさんに白羽の矢が他l他そうです。)
すると、みのさんのコミカルな語り口調はたちまち、奥様方のハートを掴み昼の顔として人気になっています。
当初は、身近な事件やや事故などのニュースを中心に、時々、健康情報を提供していましたが、やがて健康情報をメインとした生活情報を提供に切り替えるなど、15分ずらしてオープニングタイトルや提供クレジットを流すようにすると、次第に視聴率が上昇。
一時は、裏番組の「森田一義アワー笑っていいとも!」を凌ぐ年間平均勝率を記録することも、「午後はOOおもいっきりテレビ」は、20年に渡る長者番組となり、日本テレビの黄金時代を築いたのです。
この人気は他のテレビ局はほっとくはずが、ありません。
実は、みのさんは「午後は、OOおもいっきりテレビ」(平日毎日 12:00~13:55の生放送)で司会を務めるかたわら、TBSで朝の情報番組「みのもんた朝ズバ!」(平日毎日5:30~8:30の生放送)をこなしていたのです。
みのさんは、二つの生番組を掛け持ちしていたので、体力的に限界が来て、「午後はおもいっきりテレビ」の放送中に、集中力が切れて見えるシーンが増え(居眠りをしていると言われたこと)もあったということです。
また、2007年1月には主に健康や食に関するターマを取り扱っていたフジテレビの「発掘!あるある大事典」でのねつ造が問題となって同様に健康情報を提供していた「午後のおもいっきりテレビ」も割を食い、視聴率でも裏番組「笑っていいとも!」にも大きくさをつけられてバングに全体にマンネリ感が漂っていることなど様々な問題となる事柄を総合的に判断して、打ち切りとなっています。
20年のも長寿番組だった「午後は思いっきりテレビ」は2007年に終わり、引き続き「おもいっきりイイ!!テレビ」同年スタートして司会を務めるのですが、今回は、曜日ごとに、大沢あかねさんや真鍋かおりさんをきようして、生活関連情報をメインに、これまでの視聴者に加え、若い世代をターゲットに企画されていたそうですが、
「おもいっきりイイ!!テレビ」は思うようには視聴率が伸びず、早くも、2009年3月に完全に打ち切りになっています。
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打ち切り理由は
「おもいっきりイイ!!テレビ」は視聴率8~9%と低迷して言えて前の番組「午後はOOおもいっきりテレビ」の全盛期の視聴率を回復することは無かったと言われています。
もう一つの原因は、みのさんの高額のギャラだち言われています。
みのさんの時給は200万円相当な金額だったそうです。それでも、新番組を受けるときは、500万で、これでも格安な金額だそうです。
日本テレビの2008年9月の中間決算が37年ぶりに赤字へと転落しており、「時給200万円」はかなりの負担になっていたことから、視聴率と加味して、打ち切りを決めたとしたそうです。
みのさんは(2009年は3月は、前身番組である「午後はOOおもいっきりテレビ」も含めると、司会20周年にあたり、区切りが良かったこともあり、降板理由の一つであると言われています。
その中で、デーブ・スパクターさんは、写真週刊誌「フラッシュ」の取材に対し、「(みのさんは)曲アナ2~3人分の仕事をしている」とフォローしているといいます。
みのもんたセクハラ疑惑
2013年8月30、「みのもんたの朝ズバ!」生放送中(番組終了直前の午前8時29分)、CMが終わってスタジオが映し出された直後、みのさんの隣に立っていた吉田明世アナウンサーが原稿を読み上げようとした際、みのさんは吉田明世アナの腰に手を回そうとする(お尻を触ろうとする)てを吉田アナに払われるような映像が一瞬流れているのですが、
吉田アナは何事も無かったようにニュースを伝えたものの、視聴者から「公然セクハラか」などと批判が殺到した。
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TBSとみのもんたのセクハラ疑惑を否定
これに対して、TBSは、3日後の9月2日
セクハラ行為があったと言う事実はありません。スタンバイの最中に、みのもんたがアナウンサーたちと談笑していました。その様子が放送にこぼれてしまうことで、誤解を与えてしまいました
と「セクハラ疑惑」を否定。
みのさんと吉田アナウンサー双方に状況を聞いたところ、両者とセクハラとの認識はまったくなかったとのこと、また、みのさんには注意でぃていないものの、番組プロデューサーには、紛らわしい場面で放送された事に対して口頭で注意したことを、発表しています。
そして、みのさん本人も、殺到する週刊誌の取材に驚きつつも、日韓スポーツの取材に対し、
アナウンサーがトチッた時に軽く突いたりするのは、僕としてよくあることで、パワハラと言われるならまだしも、セクハラなんてとんでもない。
そんな認識はないし、相手も戸惑っていると思う。このように報じられることに驚いている。
と自身のセクハラ疑惑を否定しています。
また、番組関係者によると、「セクハラ疑惑」となった場面は、CM中、みのさんが吉田アナを驚かせようと、少し押したことが原因だったことで、
この前のコーナーで、大ヒットドラマ「半沢直樹」を引き合いに、アンケートで、集めた上司や部下への不満を紹介していた際、吉田アナが「部下」と読むところを「バカ」と聞こえるように読んでしまい、
みのさんが、
今、バカって言ったよね
と笑いながら肩を押す場面があったそうですが、なぜか、みのさんの手が払われたしまったとのことです。
「吉田明世アナ、みのもんたセクハラ疑惑の真相激白ようやく呪縛から解放された」
2019年5月1日、放送のフジテレビ「梅沢冨美男のズバっと聞きます!SP」で6年ぶりに共演した。
当時、大騒ぎになった、みのさんのセクハラ疑惑の真相を当事者2人が語り、吉田アナは「やっとお尻を触られたアナウンサーとの呪縛からにげられる」と心境吐露しています。
6年前、人気情報番組だったTBS「朝ズバッ!」が飛んでもないセクハラ騒動で揺れた。みのさんが、原稿を読み上げようとするアシスタントの吉田アナの腰にてを回し、おしりを触ったかのように見える映像が流れ、視聴者から抗議が殺到したのだ。みのさんは否定したが、「みのさんなら、あるよな」
と世間は納得さず、真相はうやのままになっていた。
MCの梅沢冨美男(68)は、みのに向かって「触ったでしょ」と、番組タイトル通りストレートに質問をぶつけた。
梅沢によると、みのとは長い付き合いだった。銀座で飲んでいたとき、みのが「これから月~金で朝の番組やるんだよ」と打ち明けたので。「きっとまわりに若い女の子アナを置くから「絶対にさわっちゃダメだよ」と言っていた。言っていたのに・・・と続けた。
これに対して、みのさんは「この指が覚えていたよ・・・」と口を開いた。ついに懺悔(ざんげ)するか?とスタジオ中の視線がみのさんにあつまる中、「そんなことするわけないでしょ」と否定。被害者の吉田も「私も釈明していいですか」と当時の状況を説明した。
エンディングのとき、みのさんの横に出演陣が勢ぞろいするのが恒例だったが、みのさんが一番端にいる吉田の肩を押し、全員がゆいドミノ倒しになるシチュエーションが「ブーム」だったという。「私は原稿をしっかり読みたいので押されたくなかった。3秒前だと思って、みのさん、辞めてくださいと手を払ったら、オンエアされていた。いかにもおしりをさわっかのようにたまたま映ってしまった。おしりには触られていないです」と真相をうちあけた。
と いう事のようです。
まあこのようなことは良くあると思いますが、テレビは一瞬の事でもオンエアーされてしまいますから、怖いですね。愛嬌のつもりでも取り方によってはセクハラにとられるから、気を付けないと思います。
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みのもんた・プロフィール
- 名前:みのもんた
- 本名:御法川法男(みのりかわのりお)
- 生年月日:1944年8月22日
- 身長:167cm
- 出身地:東京都世田谷区祖師谷
- ジャングル:元文化放送アナウンサー
- デビュー:1969年セイ!ヤング(ラジオ・文化放送)初代パーソナリティー
- 学歴:立教大学経済学部
- 所属事務所:株式会社ニッコク
代表取締役会長御法川法男 - 家族:御法川靖子(スタイリスト、2012年没)
- 血液:A型
- 干支:さる
- 星座:しし座
- 趣味/特技:食べ歩き、飲み歩き、庭いじり、/ゴルフ、スキー、テニス
みのもんたさんの家族
父親:お父さんの名前は、御法川正男(みのりかわまさお)さんです。は2005年1月(92歳で天寿されましています。)
父・正男さんは、宮城県栗原郡鶯沢村(現:栗原市)出身。その縁で、みのさんも宮城県のふるさと大使「宮城大使」を務めています。
お父さんは日国工業という水道メーター製造・販売会社を創業しています。
母親:母親の名前もわかりませんでした。
兄弟:みのさん兄はみのさんが生まれる前月に3歳で夭折されています。
その通夜の席で、お父さんの召集令状が届き、弔問客から万歳の掛け声が・・・
お母さんは「国を呪った」そうです。
そのような経験から、お母さんはみのさんに、何百回も話して聞かせたといいます。
日本は戦争してどれだけの人間を死なせてきたかよく考えなさい
ほかに、3歳年下の妹さんがいるそうですが、こちらも名前も詳しい情報がありません。
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みのもんた妻・泰子さんとの馴れ初め
- 名前:御法川靖子(みのりかわやすこ)
- 生年月日:1946年~2012年5月22日
- 享年:66歳
- 出身大学:立教大学
奥さんのお父さんが、アナウンサーと言う職業をよく思っていなかったそうです。結婚の承諾いただくのに時間を要したそうです。
みのさんは、こうして僕があるのは妻のおかげ。
(奥さんは)100点まんてんです。こんなに愛おしい人だったんだということが今になってわかりました
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新しい人生のパートナーは元・銀座のホステス
A子は華やか系ホステスではなく、報道系のアナウンサーのような落ち着いたタイプ。着物も多かったですが、サバサバして見えました。切れ長の目が印象的で、いま思えばみのさんの奥さんに似ていましたね。当時彼女は20代後半、銀座でいうと中堅どころでしたが、うまくみのさんを叱ったり、甘えたり。みのさんはA子にすぐに惚れて、A子の出勤には、必ず同伴で通うようになったんです (週刊ポスト)
※A子=恵子さん
恵子(仮)さんはショートカットで韓国女優のチェ・ジウさんに似た美人だそうで!
上の写真を見ると、綺麗な顔形をしているように見えます。チェ・ジウさんそっくりとは、うらやましいかぎりです。
みのさんに初めて出会った数日後、A子が“お昼にお弁当を作ったので、よかったら食べてください”と連絡したそうです。みのさんの体を考えたのか和食中心のお弁当だったとか。みのさんは後腐れのないいい飲み方をしてくださるお客様ですから『みの担』のホステスたちは彼を大切にしていた。でもA子があっという間にリードを広げていったんです
亡くなられた、奥様の泰子さんもそうですが、大学時代にお弁当を持ってきて食べさせたと言われたいますから、そのてん恵子さんも似ていて心優しい人柄かもしれません。みのさんの心をバッチリつかまれたのでしょう。
みのさんも、同伴後、彼女が他のテーブルに呼ばれると嫉妬するという噂(うわさ)が立つほど。ゾッコンのようですね
元々福祉関係の仕事をしていた恵子さんですが、買い越しの資格をしゅとくして銀座のホステスを辞め、現在はみのさんのサポートをしているそうです。
そんな恵子さんにみのもんたさんは、1億5000万円のマンションをプレゼントしたといいます。
恵子さんにプレゼントしたマンションは、港区の一等地にあり、最上階の72平米もある部屋だといいます。
(みのさんはこのマンションをプレゼントしたことに、そんな高いとは思っていませんよ)と周囲に漏らしていたとか。
やはりお世話になっている彼女にそれそうほうの気持ちを表しのだと思います。
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みのもんたさんの3人の子供
長女・御法川なみ
- 本名:御法川なみ(みのりかわ なみ)
- 生年月日:1979年
娘のなみさんですが、幼稚園が白百合学園だったことから、カトリック系の女子校で幼稚園から大学まで一貫した教育をおこなっている「白百合女子大」の可能性が高いそうです。
大学卒業はイギリスの「スタンフォード大学クスターカレッジ」に海外留学しており、語学堪能であることが分かっています。
帰国後は母校の大学で研究者として活動。2012年に母親の泰子さんが他界したことを受け、後を継ぐようにな形でみのもんたさんの専属スタイリストを担当しています。
長男・隼人
- 本名:御法川隼人(みのりかわはやと)
- 生年月日:1980年2月20日
- 学歴:幼稚舎から大学まで慶應義塾
- 職歴:TBS入社後、敏腕プロデューサーとして高勝率の番組を多数制作。
大学卒業後は2002年のTBSへ入社しましたが、「コネ入社」との疑いがありました。しかし隼人さんは、後に「マツコのしらない世界」のプロデューサーを務めるなどの活躍を見せ、実力ではいったといわれています。
『マツコの知らない世界』(マツコのしらないせかい)とは
TBS系列で2011年10月から毎週火曜日20:57 – 22:00(JST)に放送されているトークバラエティ番組である。マツコ・デラックスの冠番組。
実際にはアナウンサー志望だったと言う隼人さん。アナウンサー試験が不合格となり、営業職でTBSに入社しました。その後制作部に異動になりプロデューサーとしてバラエティ番組の制作を手掛けています。
私生活では2005年に結婚。鳥羽真一さんが司会を務めた披露宴にあは民放各社や芸能プロダクションのトップ、徳光和夫さんや古舘伊知郎さん、政治家などが出席しています。
長男である隼人さんは「みのもんたさんの息子」として大いに知られたです。存在になっています。
次男・雄斗
- 本名:御法川雄斗(みのりかわ ゆうと)
- 生年月日:1983年
- 学歴:幼稚園から大学まで慶應義塾
- 職歴:2005年に日本テレビへ入社、営業をへてディレクターに昇格
慶應義塾大学の商学部を卒業後、日本テレビの採用試験を受けていますが、難問が多く回答できなかったため不合格。
そのため、みのさんが日本テレビ側に入社をお願いしたのではないかと言われています。2005年に日本テレビに入社した次男の雄斗さん。
そんな、雄斗さんですが、2013年に不祥事を起こしています。これは大きく取り上げられ、父親のみのさんにも、おやの責任問題まで発展にも取り上げられています。
それは、泥酔して道に横になっていた男性のカバンを盗み、キャッシュカードを使い現金を引き出そうとした疑いで逮捕。この件で日本テレビも解雇されてしまいました。
当時日本テレビ社員の次男が、泥酔し道で横たわっていた男性の鞄からキャッシュカードを盗み出し現金を引き出そうとしたとして窃盗未遂容疑で逮捕されていたことが判明[24]。次男は同年10月8日付で日本テレビを諭旨解雇処分となった[25]。
引用:「Wikipedia」みのもんた
この事件で、みのもんたさんも責任をとるはめになっています。
隼人さんはなんでこんなことをしたのでしょうか。
父親のみのもんたさんは、世間で知らない人がいない位、公の人なのです。
その息子がしてはならない事をしたことがどれだけ大きいかわからなかったと思います。
その後、みのさんは、自分の会社「ニッコク」に隼人さんを入社させていますが、「お前が努力でやれと突き放していることがみのさん自身が語られていましたが」2023年時点で取締役に就いているとのころを見ると真面目て精進しているのでしょうか。
親父さんに恩返しできるように奮闘をしてもらいたいと思います。
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まとめ
みのもんたさんは、韓国を同胞とする発言で擁護していることから韓国人と疑われていましたが、れっきとした日本人です。
若い時は深夜放送のラジオ番組でにんきを博していますが、畑違いの営業畑で嫌気になり退職しています。
この時の経験が自分の会社「ニッコク」で10年営業したのに役立っていたと思います。
そして晩年に日本テレビ社員の息子が窃盗未遂の容疑で逮捕されたり、みのさん本人のセクハラ疑惑が噂になり、踏んだり蹴ったりの人生です。
2020年には唯一のレギュラー番組「秘密ケンミンSHOW]を降板して、レギュラーはゼロになっています。
本人は「若い人のテンポについていけなくなった」「潮時かなと思った」とかたっています。
2022年2月に「爆買い☆スター恩返し」(フジテレビ系)に出演した際には
「卒業しました」
「充分、酸いも甘いも経験させていただいて、でもいい人生でした」と語り、すでにセミリタイア状態であることを明かしています。
みのもんたさんは、様々な経験をして何クソと踏ん張った人生だと思います。でも最後は大成功収めた素晴らしい人生だと思います。
最後までご覧くださりありがとうございます。
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