都はるみの本名は李晴美で韓国籍だったって本当?韓国人ハーフ説を徹底調査解説!

都はるみ エンタメ

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都はるみさんと言えば代表曲”アンコ椿は恋の花”ではないでしょうか。

この曲はデビュー時の若干16歳の時の晴美さんが歌ったというから驚きです。歌っている姿が、声と裏腹にあどけない一面が見えるのが印象的です。

都はるみの画像1964年(16歳)

都はるみの画像1964年(16歳)

さらに独特の歌い方が聞いていても心地よいと感じてしまいます。この歌い方は「はるみ節」と言われています。さらに熱狂的ファンからはるみさんが歌うと「はるみ」と「大合唱」が凄かったと思いだします。

今回改めて、都はるみさんの本名、韓国人ハーフ説を調べて紹介します。

  • 都はるみの本名・芸名
  • 都はるみは韓国人?ハーフ?
  • 都はるみ・プロフィール
  • まとめ

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都はるみの本名・芸名

都はるみ、「アンコ椿は恋の花」、((16歳)

都はるみ、「アンコ椿は恋の花」、((16歳)

中学生の卒業式で初めて本名が韓国籍李はるみとわかる

都はるみさんは父親が韓国人のため、本名は「李晴美(りはるみ)」となります。

1966年に日本に帰化して日本名「北村晴美(きたむらはるみ)」となっています。

都はるみさんは、京都出身であることから当初は「京はるみ」でという芸名でデビューの予定でしたが、既に他社で同名の歌手がいるとわかり「都はるみ」に変更されてデビューしたといいます。

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都はるみは韓国人?ハーフ?

都はるみの画像1975年(27歳)

都はるみの画像1975年(27歳)

父親は在日韓国人

都はるみさんの父親は在日韓国人の「李正次」です。父親は京都で西陣織りの機屋を営んでいたといます。

母親は日本人の北村松代です。

したがって都はるみさんは韓国人と日本人のハーフです。

小学校(京都市立乾隆小学校)の時から「北村晴美」の名で通い、京都市立嘉楽中学校卒業証書を手に取にとった時、初めて本名「李晴美」であることを知ったという。

都はるみの母親が在日韓国人であることをカミングアウト

父親が在日韓国人で、1969年に週刊平凡において、都はるみの母がインタビューに答える形でカミングアウトされています。

都はるみは、48年に在日韓国人の父と日本人の母との間で生まれているが、69年11月に発売された「週刊平凡」(平凡出版)で母の北村松代が娘の出生についてカミングアウト。「朝鮮人と結婚したため、若いときからひどい差別と蔑視を受けてきた。世間を見返すためにどうしても娘を人気歌手に育てねば」と語った。この記事は思った以上の大きな反響を呼び、このまま発言を続けると歌手としての娘のキャリアが絶たれてしまうと判断した母はそれ以降取材をすべて断っている。また、都はるみ本人も、そのことについて口を開くことはなかった。

この母親のカミングアウトから7年後の1976年に都はるみさんは自身のヒット曲となった「北の宿」をリリースしましたが、「レコード大賞を受賞したものの世間の反応は「在日韓国人の卑しい出自の人間に与えていいのか」と産業経済誌発行の週刊誌「週刊サンケイ」の1976年12月9日号などのメディアで批判が挙がったそうです。

そのために都はるみさんはレコード大賞の受賞を辞退することも考えるほど差別に悩んだそうです。

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都はるみ・プロフィール

都はるみの画像2015年(67歳)

都はるみの画像2015年(67歳)

  • 都はるみのプロフィール
  • 本名:李 晴美(1948年-1966年)、北村晴美(1966年-)
  • 別名:ミヤコ
  • 生年月日:1948年2月22日
  • 干支:ねずみ
  • 星座:うお座
  • 血液型:B型
  • 出身地:京都府京都市
  • 学歴:洛陽女子高等学校中退
  • ジャンル:演歌
  • 職業:元演歌歌手、元音楽プロデューサー
  • 活動期間:1969年-1984年、1989年-2016年
  • レーベル:日本コロンビア
  • 事務所:コロンビア音楽芸能
    サンミュージック、プロデュースハウス都
  • 共同作業者:市川昭介、吉岡治、阿久悠

都はるみの生い立ちと家族

父親は在日韓国人の李正次と母親の北村松代さんの両親のもとに5人兄弟の長女として生まれ、下に3人の妹と1人の弟がいます。妹のひとりが「野川晴美」という芸名でデビューしましたが、ヒット曲に恵まれず引退しています。

都はるみさんの母親の北村松代さんが1969年に「週刊平凡」(平凡出版)で娘の出生についてカミングアウト。「朝鮮人と結婚したため、若い時からひどい差別と軽視を受けてきた。世間を見返すためにどうしても娘を人気歌手に育てねば」と語っています。

都はるみさんはハーフとして生まれて、出生名は「李 晴美」でしたが1966年(18歳)の時に帰化して日本名「北村晴美」になったのです。

母親は元浪曲師

都はるみさんの母親は元浪曲師だったこともあり、踊りと歌が上手く、母親自身が都はるみさんに教えていたという。

物心ついた頃から母親の影響を受けて歌が好きだった都はるみさんは3歳で美空ひばりの曲を歌いこなしていたそうです。

京都では古くから6歳の6月6日から習い事を始めると身につくと言われていることから同日,小4から日本舞踊とクラシックバレエを習っていたという。

都はるみさんは小学校4年生の頃から児童劇団「ポニー劇団」に入り、5年生頃から歌謡学院「サワダ音楽院」に入り歌と演技に励んでいたといいます。

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都はるみの原点!母親から「うねりの特訓」

母親は浪曲漫才トリオ「タイヘイトリオ」のファンだったことから都はるみさんは小さい時から浪曲歌謡ショーが好きで、大ヒットした「アンコ椿は恋の花」でのくどい節回しのこぶしは、同トリオのタイヘイ夢路さんを参考にするように母親からアドバイスされたことが、大ヒットに繋がったと言われています。

母親は浪曲師の歌手になりたいと思っていた夢を娘の「はるみ」に拓したのです。音楽学院の生徒の中で一番目立つようになるようにと「うねり」を入れた独特の歌い方を考え、はるみに教え始めたといいます。

実家は西陣織の機屋で父と母が向かい合って反物を織っている織機の前で歌の練習、どんな大きい声を出しても聞こえないから、ちょうどいい練習場だったと。母が嫌がる「はるみ」に「10円やるから歌え」とそれにつられて渋々歌っていたという。妹も一緒に日本舞踊習っていたが、歌のほうは全然ダメだったので、その分はるみに託したと言われます。

高校1年生の時に大阪三越劇場で行われたコロンビアのコンクールに出場することに。これもすべて母親が仕組んでいたとのことで、この時は優勝できなかったけれど、「うねり」が面白いからと東京の決勝大会に出られて、1963年、15歳の夏、東京日比谷公会堂での決勝大会第14回コロンビア全国歌謡コンクールで母親から「思いっきりうなってこい」と言われ出場して見事に優勝

母は本人以上に喜んでいたといいます。その時の審査員の1人が市川昭介先生だったといいます。

洛陽女子高等学校の当時の学校長の話によれば「歌手になります!」と言って中退したそうです。当時似たような若者が多く、そのうちの一人としか思っていなかったが大成功した。

と当時の学校長は語っています。

その年にすぐ上京し、翌年16歳で「困るのことヨ」で歌手デビュー。

同年「アンコ椿は恋の花」ミリオンセラーの大ヒット、1964年、第16回日本レコード大賞」新人賞。

1976年、「北の宿から」で18回日本レコード大賞・FNS歌謡祭最優秀グランプリなど数々の音楽大賞を受賞。


1980年、「大阪しぐれ」で第22回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。当時の日本レコード大賞で「大賞・新人賞・(現・最優秀新人賞)・最優秀歌唱賞」の三冠を達成したのは都はるみが初の快挙だそうです。


名実ともに昭和の日本を代表する女性演歌歌手にになっています。

母の願いが叶って日本代表する演歌歌手になったのは、母の松代さんと娘のはるみさんの二人努力の賜物だと思います。

けれど当時、

多忙なスケジュールで学校にも行けずに毎日毎日仕事の連続でストレスがたまり、ある日食事が不味とお膳をひっくり返したら、母に思い切り叩かれたという。気持ちが収まらず市川先生に電話すると「お母さんは正しいよ」とそれから2度としなかったという。普通なら歌手になった娘をちやほやするだろうけど、今思うと叱られて良かった。

と語っています。

本人の天性の素質と努力もさることながら、お母さんと良い先生に恵まれたのが、都はるみさんが成功された要因だと思います。

都はるみの結婚・内縁の夫

都はるみと夫の朝月廣臣さん

都はるみと夫の朝月廣臣さん

都はるみさんと朝月廣臣さんは、1989年に結婚されています。

実際に、結婚式を挙げられたのは4カ月も早い2月3日。というのは

2月に休みが久ぶりに取れた都はるみさんは朝月さんや友人夫妻とグアム旅行に行った時、現地の教会で結婚式が行われたため、牧師さんから「あなたたちもやってみたら」と言われ、その気になってそうで、お二人はウエディングドレスとタクシードを借りて急遽、結婚式を行われたそうです。

(ちなみに都はるみさんは、20代のうちに結婚したいという願望があったそうです。翌年に2月22日に30歳の誕生日が来るので、早めたのが真相のようです。)

朝月廣臣のプロフィール

  • 名前:朝月廣臣(あさづきひろおみ)
  • 生年月日:1944年1月22日
  • 出身地:千葉県
  • 職業:元歌手、作曲家

都はるみと朝月博臣の馴れ初め

都はるみと朝月博臣の馴れ初めは「同じ事務所だった」ことがきっかけになっています。2人は同じサンミュージックに所属して、2人とも1964年にデビューしています。

当時、都はるみの前座を務めていた関係から親しくなり、朝月博臣のことを「お兄ちゃん」と慕っていましたとか。

その後二人は交際を続けてはるみ22歳の頃に一度結婚しようとしましたが母親や所属事務所が猛反対して断念しています。

朝月廣臣はその後、サンミュージックをやめ、写植の会社を始めます。そして2人は結婚の意思を固めて1988年に結婚式を行い、翌年に籍を入れて1989年に結婚されたのです。

都はるみと朝月廣臣は1982年に離婚

都はるみと朝月廣臣の甘い結婚生活は長く続きませんでした。

都はるみと夫、朝月博臣との夫婦デェット曲

都はるみと夫、朝月博臣との夫婦デェット曲

1981年には「二人の大阪」という夫婦でデェット曲「宮崎雅名義」を出されてヒットしましたが、博臣が写植の会社を辞め、新たに銀座にオーダーメイドのスーツの紳士服のお店を始めています。

この頃から銀座遊びが始まって、夫の浮気に怒り狂ったはるみさんが、彼の背広すべて湯舟につけて着られなくしてしまったことも。

また、「北の宿から」の大ヒットの裏でははるみさんが流産してしまうという悲運も。二人は、ケンカが絶えなくなり、はるみと朝月さんは10年以上同棲していたのに結婚生活は4年しか持たず、1982年に離婚。

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敏腕プロディレクターの中村一好と不倫関係に

中村一好の経歴

中村一好さんは山口県出身で、東京大学文学部卒業後、1972年に日本コロンビア入社すると、1974年に制作部ディレクターになっています。

  • ちあきなおみ「さだめ川
  • 新沼謙治さんの「嫁に来ないか
  • 内藤やすこさんの「思い出ぼろぼろ
  • 石川さよりさんの「天城越え

など歌謡史に残る名曲の数々をプロデュースしています。

そんな中村一好さんが、1981年に都はるみさんの担当になると、「大阪しぐれ」や「浪花恋しぐれ」などの大ヒット生み出しますが都はるみさんは朝月廣臣さんとの関係で悩んでいた時にはるみさんの担当ディレクターだった仲村一好さんに相談しています。

そんな関係があってかプライベートでも2人は交際に発展して、1983年頃には半同棲を始めたと言われています。

天才肌と言われた敏腕プロデューサー中村一好さん

天才肌と言われた敏腕プロデューサー中村一好さん

その関係でだんだん親しくなり、同棲を開始するのですが中村さんには妻子が・・・

当然お母さんや事務所は猛反対すのですが、稼ぎ頭の都さんには強く言えるものは誰にもおらず。

はるみさんは再婚を望んでいましたが、仲村さんの奥さんが離婚を断固拒絶。そして二人は内縁関係を続けたのです。

都はるみ突然の引退会見

都はるみの引退会見、コロンビア本社、1984年

都はるみの引退会見、コロンビア本社、1984年

都はるみさんは1984年3月5日(36歳)の時に突然記者会見

開口一番、大きくため息をついたのち

いつもこういう会見ばかりで申し訳ありません。

と切り出し

「北の宿から」でレコード大賞(76年)を頂いた頃、母から「もうやめたら」と言われました。

私もずっとその言葉を意識してきました。デビュー20周年の今年で、「けじめ」をつけ、(本名)の北村晴美に戻ることにしました。

枯れた歌を歌っていくのはイヤです。

何も悔いもありません、本当にありがとうございました。

これからふつうのおばさんをやります。

と引退を宣言。

その直後、テレビのリポーターから

引退は(ディレクターだった)男性と結婚を決意したのか。妻子がいるが。

と質問が飛ぶと、一瞬戸惑うも、

そのことは関係ありません。自分の生き方は自分で決めることで、他人によって決められるものではありません。

と中村さんとのことは否定されています。

ちなみに、都はるみさんのレコード総売り上げは581億円公演(1日のギャラは600万円)は2000回で1000億円を超えており、

都はるみさんの資産は都内と京都のマンション、ステージ衣装500着、宝石類、貯金などで総推定額12億円!

何も悔いはない」との言葉は、説得力がありました。

都はるみさんが選んだ相手は妻子がいることを承知の上の略奪愛。

引退の理由は、とりもなおさず愛する中村一好さんの子供を産みたいという一念だったと言われています。

都はるみ、1984年最後のNHK紅白歌合戦

都はるみ、1984年最後のNHK紅白歌合戦

その年の「第35回NHK紅白歌合戦」出場を最後にいったん引退していますが・・・

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プロデュース業で芸能界復帰

都はるみさんは、「ふつうのおばさんになりたい」と引退会見から、わずか3年で復帰しています。

1990年に都はるみさんに子宮筋腫が見つかり、出産は断念せざる得なくなりますが、都はるみさんの才能に惚れこんでいた中村一好さんは1989年2月にコロンビアを退社し、自ら代表になって個人事務所プロデュースハウス都を設立。

都はるみさんとは内縁関係のまま、プロデューサーとして都はるみさんのその後も歌手活動をサポートし続けてたのです。

そして、全国各地でオーディションを行い、佐賀県出身の大和さくらさんを「王将一代小春しぐれ」で演歌歌手としてデビューさせると記者会見や雑誌インタビューの席に都さんも同席され、所属事務所(サンミュージック)がプロモーションチーム組むなど、大々的なバックアップの陰りもありスマッシュヒットを飛ばすのですが・・・

大和さくらさん

時代は、「Wink」「光GENJI」などのアイドル全盛期となっており、2年目以降は活躍の場が激減し、低迷してしまったのです。

都さんは他にも韓国出身のキム・ヨンジャさんもプロデュースされたようですが、こちらも鳴かず飛ばずだったようです。

都はるみと内縁関係にあった中村一好の突然の死去!死因は?

中村一好さんが離婚できないまま、内縁関係を続けて20年以上、公私にわたって支えあってきた二人ですが、都はるみさんが地方公演から、帰ってきた時に、スタッフが自宅で中村一好さんが亡くなっていることを発見しています。

2008年4月4日未明、中村一好さんが都内の自宅で突然死去したことで2人の関係は終止符が打たれたのです。都はるみさんの落ち込みはが激しく、スタッフも近寄れない状況だったようです。

都はるみの画像2013年(65歳)

都はるみの画像2013年(65歳)

関係者によりますと、中村一好さんは体調を崩していたわけもなく、亡くなる直前までも何ら変わりのない様子だったといいます。

都は3月4日から新宿コマ劇場で座長公演「好きになった人」を行っていた。中村さんは後半の歌コーナーで演出を務めており、同20日の千秋楽まで中村さんは連日、劇場に顔を出していた。千秋楽の打ち上げパーティーにも元気に参加。公演終了後もレコード会社のスタッフと打ち合わせや連絡を取り合っていたという。

中村一好さんの死因は、当初「急性心不全」と発表されていましたが、その数日後、都はるみさんがファックスを通じて「4月4日未明。自ら命をたちました」と中村一好さんが自殺だったことを明かしています。

ただ、当時はかつてほどの勢いはないにしても、都はるみさんの仕事は順調で年内のスケジュールも埋まっていたそうで、遺書も残されておらず、関係者の多くは中村一好さんの自死の理由について首をひねっていたそうです。

ただ、そんな中で次のような証言も・・・。

天才肌プロデューサーの中村氏は、この数年、会社経営と自分のやりたい音楽性のはざまでの悩みも多く、酒量が増え、睡眠導入剤も手放せない状態がずっと続いていた。

都はるみさんは

葬儀は「ご親族の方の希望でご親族のみで済まされました。私もまた遠くから彼とお別れさせていただきました」。

都は「なぜ、彼を思いとどまらせることができなかったのか、私はこれを悔やんでも悔やんでも悔やみきれません」としながらも「今、私ができることは歌い続けること」とつづっています。

都はるみ、東北の都で育つ矢崎茂との安らぎの人生

都はるみと矢崎滋舞台「好きになった人」2008年(60歳)

都はるみと矢崎滋舞台「好きになった人」2008年(60歳

都はるみさんは、内縁関係を20年以上も長い間公私とも連れ添っていた中村一好が自殺され、最後の別れのないまま先立たれ、その翌年には最初の結婚した夫・朝月廣臣さんが病死。

自らを支えてくれたパートーナーなくした都はるみさんは失意のどん底だった。ここにきて東北の街で矢崎滋さんと同棲生活を送っている事がわかってきています。

ようやく「ふつうのおばさん」になれたのかとほんわかな記事に心温まる感じになっている人が多いと思います。

矢崎滋さんのプロフィール

矢崎滋さんのCM、白鶴

矢崎滋さんのCM、白鶴

  • 本名:矢崎滋(やざきしげる)
  • 生年月日:1947年9月2日
  • 出生地:東京都
  • 身長:173cm
  • 血液型:AB型
  • 学歴:東京大学文学部中英文学科中退
  • 職業:俳優
  • ジャンル:部隊、テレビドラマ、映画
  • 活動期間:1968年-2014年
  • 配偶者:なし(離婚歴あり)
  • 著名な家族:父・矢崎源九郎

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矢崎滋さんと都はるみの出会いは

都はるみ

2013年3月14日に意外なカップルの発覚のホットなニュースに驚いた人は多いと思います。

同学年同士。歌手の都はるみと日本酒「白鶴まる」のCMでも知られた元俳優、矢崎滋さんです。仲睦まじい姿が写真週刊誌「FRIDAY」で報じられています。

都はるみが心を開いたわけ

矢崎滋さんとの出会いは2008年、都はるみの主演舞台「好きになった人」での共演だといいます。

2008年に長年、事実婚のパートーナーだった、音楽プロデューサーの中村さんを亡くされています。矢崎滋さんと事実婚相手の中村一好さんは

中村さんも矢崎さんも東大なんです。初対面でしたが“同門の学友”だとわかって一気に仲よくなって。本来、舞台稽古は、真剣になるほど現場の空気が険悪になりがちなんですが、“中村ちゃん”“先輩”と呼び合う2人のおかげで、稽古場の雰囲気も一座のチームワークも、とってもよかったんです

と呼んで親しかったため、はるみさんはその人の相談をしたり、相手が亡くなった際には矢崎さんが慰めていたそうです。そこで距離が、縮まったといいます。

都はるみさんは2013年に疲労からくる急性喉頭炎で入院したのを境に活動をセーブするようになり、16年2月にラジオ出演したのを最後に公の場から姿をけしています。

一方、同じくバツイチの矢崎さんも14年のドラマ出演を最後に活動を停止。

2012年9月には週刊誌「週刊女性」の取材に引退を告白しています。現在は東北地方の1泊5000円のビジネスホテルが定宿。

はるみは東京に自宅があり、北関東で喫茶店を営む親しい女性とゴルフや温泉を楽しむかたわら、車を運転して逢瀬の時間を大切にしているという。

都はるみ

報道から2年たった現在も「半同棲生活」を楽しんでいるとのことです。

お二人は定住のビジネスホテルは福島県白河駅前という情報が報道されています。

ここにきて、本当の意味でも「ふつうのおばさん」になれたようですので、これからも穏やかに過ごされることを願います。

都はるみ

お二人は長年連れ添った老夫婦のようだと見た近所の人は言っています。

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まとめ

都はるみの画像

都はるみの画像

都はるみさんの本名は、中学生卒業まで在日韓国籍の李 晴美(りはるみ)です。

母親の北村松代さんが「週刊平凡」で娘が在日韓国人であることをカミングアウトしています。そして1966年に帰化して、日本名北村晴美になっています。

したがって、都はるみさんは、父親は韓国人、母親は日本人でハーフになります。

母は浪花曲の歌手になりたい夢をはるみに託したのです。はるみに「うねり」を取り入れた独特の歌い方をはるみに身に着けさせたのです。

その思いは成功して、第14回コロンビア全国歌謡コンクールで優勝。

そして、上京して、歌手デビュー。3曲目の「アンコ椿は恋の花」でミリオンセラーの大ヒット。1964年第16回日本レコード大賞、新人賞。

1976年「北の宿から」で18回日本レコード大賞・FNS歌謡祭最優秀グランプリなど数々の音楽大賞を受賞。

1980年「大阪しぐれ」で第22回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。

日本レコード大賞で「大賞・新人賞・最優秀歌唱賞」の三冠を達成したのは都はるみが初の快挙だそうです。

都はるみさんは名実ともに昭和の日本を代表する女性演歌歌手になっています。

本当に凄い歌手になったと思います。なかなかこのような人は出てこないんじゃないでしょうか。

歌手では大成功納めましたが、男運には恵まれなかったようです。

最初の夫の朝月博臣さんには浮気が原因で別れて、二番目の中村一好さんは抜群の才能の持ち主だったけど、妻子がある人を好きになって略奪愛と言われ、内縁関係を20数年以上続けた来たのに中村さんの自殺よって終止符が打たれてしまっています。

そして、3人目の矢崎滋さんと東北の「北の宿」で半同棲生活を送っていることが、写真週刊誌「FRIDAY」によって報道されています。

同年齢で、お互いバツイチで境遇が一緒だったから打ち解けたかもしれません。はるみさんの舞台「好きになった人」で共演されて、内縁の夫中村さんと同じ東大で学んだことで中村さんと息があったといい。

亡くなられてからも矢崎さんが慰めていたといいます。そんなことからも気持ちが開けていったんだと思います。

今度こそ「ふつうのおばさん」になって、健やかに過ごされることを願っています。

 

最後まで、お読みくださりありがとうございます。

 

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