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当時のアイドルは小柄のかわいい子が主流でしたので、浅野さんは時代の波にはのれなかったのです。
浅野さんはミニスカートやホットパンツを強調するスタイルには女性から反発され、アイドルとしては成功しませんでした。
そのなかで、大人びいたルックスとスタイルで、石原裕次郎の「太陽にほえる」に出演することになり、話題になっています。
- 浅野ゆう子の本名はは赤沢裕子?
- 浅野ゆう子3歳の幼少期に父親と母親が離婚
- 浅野ゆう子の芸名の由来は?
- まとめ
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浅野ゆう子の本名は赤沢裕子?
結論から言うと浅野ゆう子の本名は「赤沢裕子」(あかざわゆうこ)といいます。
兵庫県神戸市東灘区出身で生年月日:1960年9月9日です。
裕子の(裕)は母:赤沢住枝(すみえ)さんが石原裕次郎のフアンだった母によって名付けらています。
それは母親の住江にとって石原裕次郎は憧れの存在だったのです。
母も芸能人になりたかったかもしれません。だからゆう子を芸能人すべく、正座を禁止したり歯を矯正したり、礼儀作法を教え込んだりしていました。
当時に自宅は宝塚の近くで、いつも母親から
「大きくなったら、宝塚に入るのよ」
と言われていたといいます。だから大きくなってら浅野は
「宝塚に入るんだ」
とずっと思っていた。
ところが、小学6年生の時、神戸市内のラジオ放送局の番組を見ていたときに、その事務所の方から、
「歌ってみませんか」
と声をかけられてスカウトされたのです。
浅野ゆう子はその時は
「天地真理」さん
のようになりたいと思っていたのです。
そして、一人で上京して、寮に入りながら学校に通いながら、テレビ番組で優勝していますう。ちなみに、歌謡番組で予選で森昌子、決勝では山口百恵の歌をうたったのです。
浅野ゆう子さんの歌のポテンシャルはとても高いと思います。普通何回も落ちるのに、一回でチャンピオンなるとは凄い事です。
でも、セカンドシングルで1974年「恋はダンダン」で第16回日本レコード大賞新人賞受賞しています。
1976年に「セクシーバス・ストップ」で自身の初ヒットを記録しています。
その縁で、裕次郎が、母・住枝の経営する神戸市の、バーラウンジ(昇)訪ねてきたのです。
石原裕次郎がまさか訪ねてくるとは、信じられなかったと思います。
娘のゆう子によって石原裕次郎と対面できたことで、一気に苦労が報われた瞬られました。
浅野裕子さんの(裕)は石原裕次郎さ(裕)を執って母親の住枝さんさんによって名付けられていました。
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浅野ゆう子3歳の幼少期に父親と母親が離婚
浅野ゆう子の両親が3歳の時に離婚!親戚家を転々
父親がこんな行動するとは信じられないことですね。本当は飛んで喜ぶのが普通だと思いますが、父親としてはあるまじき行為だと思います。
娘、ゆう子がこんなに大スターになったのを見てどう思ってるんでしょうか。
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浅野ゆう子の父親は政治家・石井一氏説
浅野ゆう子の父親と検索すると必ず名前が出てくるのがこの石井一氏です。
石井一氏は数々の要職歴任された大物政治家です。
- 衆議院議員(11期)
- 参議院議員(1期)
- 国土庁長官(第9代)
- 自治大臣(第45代)
- 国家公安委員会委員長などされています。
石井一プロフィール
- 生年月日:1934年8月17日~2022年6月4日(87歳没)
- 出身地:兵庫県神戸市
- 出身校:甲南大学経済学部(1957年卒業後にアメリカに)
スタンフォード大学大学院 - 前職:日本生産性本部職員
- 所属政:自由民主党、新生党、新進党、国民の声、民政党、民主党
石井一氏が浅野ゆう子の父親説
母親の住枝さんが兵庫県神戸市にある高級料亭「上伊」の専属芸者だった頃に大物政治家竹下昇氏が、毎月のようにお忍びで訪れるほどお気に入りの芸者さんだったと言う。
竹下昇氏が石井一氏に住江さんを身請けさせたという。そのお金で住枝さんは三宮にお店をでしたのです。そのお店が、バーランジ「昇」です。
- 浅野ゆう子さんの生まれた、1960年は
- 母親:住江さんは:1932年(28歳)
- 竹下昇さんは:1924年(36歳)
- 石井一さんは:1934年(26歳)は浅野ゆう子さんが生まれた年には、アメリカに行っていたので、父親になることは不可能です。
したがって、石井一氏が父親説がガスネタです。
石井一氏はこちらの記事を参照してください。
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母親の実家・赤沢家のルーツは武士
併せて浅野ゆう子さんの母親のルーツを調べてみた
母親・住江さんの実家は赤沢家は、戦後時代毛利氏に仕える武士でした。
瀬戸内海方面を護る水軍でした。
その後現在は高知県高松市屋島に移り住み帰農したという。
母親も屋島出身で、周辺には赤沢性が多いといわれます。
浅野ゆう子さんは、母親の住枝さんが、里帰りして出産されたと思います。
だから本当の出身地は、高知県の東かがわ市という事です。
そのあと小学2年生の頃から、母親と一緒に神戸市で暮らし始めたと言うのが正しいと思います。
幼い時は高知県かがわ市で親戚の家をとして転々として暮らしていたと思われます。
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浅野ゆう子の芸名の由来は?
浅野ゆう子の芸名は
浅野ゆう子さんは自身の芸名についてつぎのように述べています。
1.芸名の赤沢から(ア)をとって、呼びやすい浅野のはひらがなのゆう子をくっ付けた」と話されています。
2.桂三枝と対談した時1976年の雑誌明星で「レコード会社から1日で考えてくれと言われたんで、自分で電話帳パットめくりロゴがいいから浅野ゆう子にしたと話しています。
3.人に聞かれた時は浅野内匠頭にあやかったともいう。
浅野ゆう子さんの芸名は自分で付けたようです。いろいろな説がありますが、
1番の本名の赤沢から取ったのが、説得力があって理に適っていると思います。
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浅野ゆう子に韓国人説?ハーフ説も検証してみた
浅野ゆう子の韓国人とハーフ説がネットで噂になっていました。
結論から言いますと、韓国人とハーフ説は二つともデマです。
そのわけを説明します。
- お母さんの住枝さんは、高知県東かがわ市出身です。
- 浅野ゆう子さんは、兵庫県神戸市東灘区出身です。
- 父親と言われる石井一(はじめ)さんは、神戸市須磨区出身です。
- 母親の住枝さんを寵愛した、竹下昇さんは島根県雲南市出身です。
母住枝さんは若い頃、美人で高級料亭「上伊」専属売れっ子芸者でした。大物政治家の竹下昇氏が毎月お忍びで来るくらいのお気に入りでした。
噂によると、竹下昇さんが石井一さんに身請けさせて、家を建ててお店を持たせるように指示したといい、当時のお金で1億以上を預けたと言われています。
韓国人、ハーフ説が噂になったかと言える下りがあるヒントはこちらから垣間見えます。
①ドラマ「抱きしめたい」でW浅野として共演した、浅野温子さんが、韓国人と噂になった経緯があります。その関連で問われた可能性があります。
②韓国の男性雑誌に浅野ゆう子の写真が多く(日本の雑誌のマルコピー)が掲載されていることも原因もあると思います。
③父親が(石井一)ハーフじゃあないかとも噂になっていました。
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まとめ
①.浅野ゆう子さんの本名は赤沢裕子で、名前はお母さんが石原裕次郎のファンでそこから(裕)の字を貰いつけたのでした。
②.浅野さんが3歳の時に父親と母親が離婚で、父親が政治家の石井一さんとネットでは言われていています。
③.韓国人・ハーフ説ですが、浅野さんとお母さんの住枝さん、お父さんと言われる石井一さんも日本人ですから、韓国人・ハーフ説は噂だけでした。
以上まとめでした。
2023年ハワイ住在のケリー忍さんの計らいで、結婚式を挙げています。この時旦那さんの素顔が初めて公開されました。
正に美男美女のふたりです。
浅野ゆう子さんは57歳で結婚されても結婚式はしていなかったのです。現在は充実した幸せな人生を送られているようです。
最後までご覧くださり有難うございます。
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