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伝説エピソード⑥日本のテレビ初放送からテレビに出ていて1953年テレビ女優の第1号としてデビューしていた
黒柳徹子さんは1953年の2月1日のテレビ放送開始初日からテレビに出演されています。
1953年1月にNHK放送劇団の一員となり、テレビ放送女優の第一号としてデビューしています。
NHKのモーニングを着た人が今日からテレビ放送が始まりますと挨拶された場面にいたのです。
テレビの数が866台しかなく、1台で5人見たとしても4000人のための放送でした。
最初は通行人などのちょい役で出ていて現場を学んでいたそうです。
テレビの放送初めての日からテレビに出ているとは凄いです。ほとんどの家にテレビが
無い時代にテレビに出演されているとは、時代の最先端を走っていらしゃったんですね。
何しろ、大卒の初任給が、1万円ぐらいでテレビは25万円もしたそうで、今のお金で500
万円ぐらいしたそうですから、買えませんね。
正にテレビの歴史は黒柳徹子さんの歴史だと思いますし、そして今でも出演されている
とは本当に凄いとしか言えません。
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伝説エピソード⑦NHKラジオドラマ史上初の大人女性で初めて子供役の声を演じた
この年にNHKのラジオ番組で黒柳徹子さんは、「人形劇ヤン坊、ニン坊、トン坊」のトン坊役で主演をしています。
この人形劇は原作者の飯沢匡氏が発案したものです。
黒柳徹子さんは人形劇トン坊役で人気がでて一躍有名になったのです。
黒柳徹子さんは個性が強すぎるとか声が変だとか揶揄されて、番組を降板させられてきていました。
そこで今回、大人の女性でも子供の声が出せるはずだと考えて飯沢氏が初めてNHK でオーディションでトン坊役で徹子さんが選ばれたのです。
それに感激した、徹子さんは飯沢氏に
「言葉を直します、一所懸命勉強します」
など懇願します。
しかし、飯沢氏は、
「君の個性が必要なんです、直さないでください、そのままがいいんです、けして直してはいけませんよいいですね。」
と言ったと言います。
黒柳徹子さんにとってはそれは信じられない言葉だったのです。
自分の個性を認めてくれたのは飯沢匡氏だったのです。
そして、この時に思い出したのは、トモエ学園の小林先生の「君は本当はいい子なんだよ」といわれた言葉でした。
黒柳徹子さんは二人の恩師に出会えたことで強い心の支えになったといいます。。
生涯の師と呼べる飯沢匡に出会ったことが黒柳さんの人生の宝物だと思います。
その後も飯沢氏の作品に出演されていて、演劇でも指導されるようになり関係がつづき
ます。演技する時も相談したら、「元気でやって下さい」と言われたと言っています。
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伝説エピソード⑧NHKがカラー放送を始めるとき顔の右半分を濃い紫色に左半分は白色に塗られ半日黙って座らされ撮影された
カラーテレビのモデルに
1955年(昭和30年)ごろ、NHKの科学研究所でカラー放送の研究が始まったといわれます。
黒柳徹子さんは研究のためモデルにいく事になり、当時はカラー映画が日本にきていた
ので、「あんな風にする」のかなと期待していたがところが行ってみたら、右顔半分を
紫色に塗られ、もう半分は白色に塗られ、ジ~っとカメラの前にいるだけでした。
徹子さんは、メイクの人に私「ピンクがいいんですけど」と言ったら、今日は紫の日
ですと言われたといいます。
要するに、人の肌に色を塗ってどのように映るかを実験してたとのことです・
自分が、綺麗に映るのと夢をもっていったのに、縞馬みたいで、がっかりしたといいます。
顔に色を塗ってどう映るかを見たと言いますから、
今からは信じられないけど、最初はみんな手探りだったんですね。
当時の白黒からカラーテレビになって大変なのはスタジオ内が以上に熱く異常でしたといわれます。
生け花なども「水分蒸発する」のが分かるほど。据え置きの金属などは触れるやけどす
る」ほどになっていたといいます。
黒柳徹子さんの数々の実体験をしてきたお話を聞いているといかに大変さが分かりま
す。
やはり現場にいた人の話はその場の雰囲気が聞いていてもこちらに伝わってきますから、大変ありがたいです。
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