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松田優作といえば長身でカッコイイ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事の姿が頭に浮かびます。

松田優作 刑事ドラマ「太陽にほえろ!」1973年初登場
そんな松田優作さんですが、韓国人ハーフだったのです。
松田優作さんも在日だということで差別され、人気俳優なっても自身が韓国人だとわかるとファンの人ががっかりして軽蔑するだろうと悩んでいたといいます。
そこで、今回松田優作さんの生い立ちから、人気俳優になるまで振り返って徹底調査して紹介します。
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故松田優作は韓国人ハーフで本名が金優作キム・ウジャッだった
松田優作の本名は金優作(キム・ウジャツ)です。
松田優作さんは在日韓国人2世でハーフです。
松田優作さんの「優作は優しい人になってもらいたい」との願いが込められているといいます。
1973年に刑事ドラマ「太陽にほえろ!」の出演をきっかけに帰化して、通名だった松田優作を本命にしています。

松田優作刑事ドラマ「太陽にほえろ!」1973年ジーパン刑事役で初登場。ボス役石原裕次郎と
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松田優作の両親はどんな人?
松田優作の父・姓は大村
長崎県出身で当時39歳、身長は180cm近く職業は保護司(前科者を更生させる)仕事をして、長崎には妻子持ちだったといいます。
母親の名は松田かね子
松田質店を営む在日韓国人です。
かね子には同じ在日韓国人で松田武雄と名のっている夫がいましたが、1943年ニューギニアのハンサで戦死。
武雄さんとの間には東・丈臣という2人の子がいます。
かね子さんは、大村には長崎に妻子いるということを知らなかった。大村は優作さんが宿ったことを知って長崎に逃げ帰っていったという。
父親は優作さんが生まれてすぐに亡くなっています。こうして優作さんは、母親かね子さん女一人によって2人の異兄弟と一緒に育てられています。
松田優作さんが生まれ育った生家、下関界隈の動画がありましたのでご覧ください。
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松田優作の韓国人疑惑に対するネットの反応
Xで松田優作の韓国人疑惑に対する反応を調べてみました。
松田優作のかっこよさは韓国人(在日1世)の母親を持つが故だったのかもしれない。
今でも探偵物語最終回の死に様を思い出せる。— ぶ (@nobuharasawa) February 27, 2025
「僕は『太陽にほえろ!』という番組に出演しています。僕を応援してくれる人達も沢山できました。僕が在日韓国人だという事がわかったら、特に子供達は夢を裏切られた気持ちになるでしょう」
私は涙を見せずに答えた「読んだ人には気持ちが通じると思う」
【越境者 松田優作(松田美智子著)より】 pic.twitter.com/UILpdYfPxE— すずきかずたか (@suzukikazutaka1) November 28, 2018
松田優作の在日韓国人であることが公表された時、世間には大きな驚きがあったといいます。
俳優としては圧倒的に存在感を持つ松田優作ファンには多くの人には予想がだったのです。
一部のファンは松田優作に「夢は壊された」と感じていたと言われています。
松田優作の作品や役柄に憧れていた層にとっては、この事実はショックだったようです。
それでも、松田優作を支え続けたファンも少なくなかったといいます。
松田優作の俳優としての才能や人柄に惚れこんでいる人々にとって松田優作のルーツは重要な問題ではなかったのです。
それどころか松田優作の苦悩を知ったファンからは「人間として尊敬する」との声が多く寄せられたとのことです。
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在日韓国人であることが発覚したきっかけは?
松田優作さん在日だと確信したのは高校生の時1967年領事館にパスポートを取りに行った時
松田優作は山口県下関で日本人の父と韓国人の質屋を営む母との間に嫡出子として生まれています。
優作さんには2人の異父兄がおり、兄弟は仲は良かったが、次第に2人と違うと自身の出生の秘密に気づきはじめ、それが原因で孤独を感じるようになったといいます。
松田優作さん高校生の時1967年(昭和42年)に母親がアメリカに行かせようと領事館にパスポートを取りに行った時に自分は在日韓国人だと
この時代には在日だというだけで差別されていたといいますから、母親もそのことに対して、アメリカに行って弁護士になれと言われたと思います。
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帰化申請したのはいつ?
1973年、刑事ドラマ「太陽にほえろ!」にジーパン刑事としてレギュラー出演に決まった時に法務大臣宛に機に帰化動機書を提出しましています。

松田優作の画像、ドラマ「太陽にほえろ!」ジーパン刑事役で出演
今までも帰化の機会が何回も試みたようですが、その都度だめだったようです。今回は結婚とテレビに出演で松田優作も大勢の人に認知されるようになって、名目も整ったことで帰化の申請をしたのです。
前妻の美智子さんも父親の人脈から元総理大臣へ陳情して、優作の日本国籍獲得に協力しています。
そして念願かなって松田優作さんは1974年12月に日本国籍を取得されています。
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帰化申請した理由を徹底考察
松田優作さんは帰化の理由は在日と言うだけで差別を受けてきたことから一刻も早く抜け出したく帰化の申請をしています。
『太陽にほえろ!』出演が決まった時に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得これにより、通名だった松田優作が本名となった。
上記の理由が、一般的なことで知られていますが、これより前から松田優作さんは自身のアイデンティティに悩んで苦しんでいたと言います。
前妻の美智子さんの著書『永遠の挑発 松田優作との21年』(リム出版)に松田優作の在日韓国人への差別と日本国籍への執着が書かれています。

本書は松田優作の前妻の立場から松田麻妙(まみ・本名=美智子)氏が、松田優作との出会い、結婚、長女誕生、離婚、その後の親交、彼の死までを綴っています

松田優作と前妻美智子さんと長女の3人
物語は優作と美智子が同棲を始めて半年ほどだった昭和44年に遡る。上京してきた母親は美智子の部屋で男の影を察知したようで、しばらくすると今度は叔父が上京してきた。
〈母が見つけた身分証明書をもとに、優作の身上調査を済ませたという。(略)彼が私生児であること、実家が女郎屋のような商売をしていて、警察沙汰になったこともあるなど、家庭事情が語られ、国籍も日本ではなく韓国だと告げられた。〉
驚いた美智子ですが、思い当たることがあったと言います。優作は美智子に何度も「本当のことを言えば、おまえは俺から、逃げていくだろう」と言っていたという。優作は「何があろうと俺を信じて、全てを受け入れるか」といった美智子を試す言動もしていたという。
自分が在日というだけで、そのことをもし相手に知られたら、愛する人が自分の元を去ってしまう。優作は自分の出自に関し、そんな恐怖、怖れを抱いていたと言う。人間性ではなく、自出が違いだけで差別され、虐げられてきた体験が優作にあったという。
松田優作さんは在日というだけで差別され、色眼鏡で見られる状況から何とかして抜け出したい思い、前妻の美智子さんに「お前の家の養子にしてくれ」と頼んだという。
優作さんは遊郭の一角で生まれ育ったことや、韓国籍であることを死活問題のように悩んでいたという。
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松田優作のプロフィール
- 生年月日:1949年9月21日
- 没年月日:1989年11月6日
- 出生地:山口県下関市
- 死没地:東京都武蔵野市(武蔵野和会病院)(当時・西窪病院)
- 国籍:日本
- 身長:183cm
- 血液型:A型
- 職業:俳優、歌手
- 活動期間:1972年ー1989年
- 配偶者:松田美智子(1975年-1981年)
松田美由紀 (1989年-1989年) - 著名な家族:熊谷真実(義姉)
松田龍平(長男)
松田翔太(次男)
松田ゆう姫(次女)
生い立ち
松田優作さんは山口県下関市に生まれです。
父親は長崎県出身の保護司の大村。
母は下関市で「松田質店」を営む在日韓国人一世のかね子。
かね子さんには松田武雄という夫がありましたが、1943年にニューギニアのハンサで戦死されています。武雄さんとの間には東、丈臣という二人の子がいたのです。
父親の大村は、かね子さんが優作をやどったこと知ると長崎に逃げ帰ったという。
かね子さんは知らなかったそうですが、大村には長崎に妻子がいたという。その後優作さんが生まれて間もなく大村さんは亡くなっています。
1973年刑事ドラマ「太陽にほえろ!」でジーパン刑事役で一躍有名。
1970年代後半からアクションスターとして人気を博し、1980年代から演技派として認められてようになって出演したドラマ「探偵物語」などはじめとして演技や人柄において行進への影響は大きいと言われています。
代表作は「蘇る金狼」「野獣死すべし」「家族ゲーム」「陽炎座」
1989年、念願であったハリウッド映画「ブラック・レイン」(リドリー・スコット監督)に出演。作品は大ヒットを記録、特に優作の演じる”佐藤”の気迫の演技は他の演者を圧倒しハリッドから絶賛を浴び、瞬く間にロバート・デ・ニーロとの共演作品など次回のオファーが殺到したといいます。
1989年11月6日膀胱がんで40歳で死去されています。
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さいごに

松田優作の画像1979年(29歳)映画「蘇る金狼」
松田優作さんは40歳という、短い人生を怒涛のように駆け抜けた人でした。
日本人の父と韓国人一世の母親生まれたとこが遊郭の一角で異兄弟がいて、最初は父親が違うことがわからなかったそうで、中学生の時自然に気が付いたそうです。
アメリカに叔母がいて、母親からアメリカに行って来いと、そして弁護士になれと言われて渡米したのです。
カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退する。
シーサイド大学の体育館で観たニューヨークのアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、こんな世界があるのかと感銘を受け芝居をやりたいと思い立ち帰国。
これが松田優作さんが役者を目指す原点です。
自身の生い立ちをバネして役者人生に全身全霊で歩んでこられた感じがします。
「太陽にほえろ!」のジーパン刑事役はいつまでも私たちの記憶に残っています。
松田優作さんは短い人生でしたが、中身の濃い素晴らしい人生を全うしたと思います。
ご冥福をお祈りします。
さいごまでご覧くださりありがとうございます。
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