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松坂さんと言えば、「品のある絶世の美女」、「圧倒的な美女」と言われる大女優です。
松坂慶子さんのルーツは父は韓国から仕事を求めて小舟で渡ってきた韓国人です。
母は東北人で幼少の頃は身売りされて戸籍もなかった女性です。
そんな苦労してご両親のもとで育てられたと言います。松坂慶子さんは中学生まで韓国姓のままで過ごしています。
そこで今回は改めて、松坂慶子さんの本名、韓国人説を紹介します。
- 松坂慶子の本名・芸名は
- 松坂慶子は韓国人?ハーフ?
- 松坂慶子のプロフイール
- まとめ
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松坂慶子の本名・芸名
松坂慶子の本名の由来は
松坂慶子さんの本名は「松坂慶子」です。
韓国名はハンギョンジャ(韓慶子)。(結婚後は高内慶子(たかうちけいこ))になっています。
芸名は日本の帰化した本名の松坂慶子で活動されています。
お父さんは朝鮮半島の慶尚道(キョンサドウ)大邱(テグ)出身なことから、
故郷を忘れないようにと「慶」の文字をとり、「慶子」と名付けたということのようです。スポンサーリンク
松坂慶子は韓国人?ハーフ?
父親は韓国人
松坂慶子さんは1952年に7月20日に東京都大田区に生まれています。
松坂慶子さんのお父さんは、韓英明(ハンは朝鮮半島の慶尚道(キョンサンドウ)大邱(テグ)の出身で1938年15歳の夏、職を求めて、小舟で日本に渡航して、朝鮮人であることを伏せ、日本名「岡本茂」を名乗り、職を転々としたそうです。
母親も幼少期は身売りされていた!
母親のつね子さんは東北の青森出身で貧しさから幼少期に身売りされた過去があったそうで、戦後の混乱期に仙台でつね子出会ったそうです。そんな境遇の二人は寄り添うように同棲し始めたそうです。
そして二人は行商始めて、やがて英明さんは複数の事業を始めて成功を収めて、兵庫県愛媛市に引っ越し、それから神奈川県藤沢市に引っ越し、東京大田区に移り住み、松坂慶子さんが誕生したのです。
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松坂慶子は12歳まで韓国籍だった!
両親は二人とも苦労重ねた人生を歩んできましたが、娘の慶子には教育と芸事に熱心に様々な習い事をさせています。
松坂慶子さんは少女時代まで韓国籍のままだったそうです。
一時期はお母さんのつね子さんは、身売りされたいたことから戸籍がなく、神奈川県藤沢市に転移した際「清水」という姓で戸籍を作ったそうですが、その戸籍はすでに亡くなっている韓国人の戸籍を借りたものだったことから、日本人であるお母さんも韓国籍になってしまったのです。
お父さんの英明さんも在日韓国人で日本名を名乗っていたものの、国籍は韓国のままなので娘である松坂さんも韓国籍となっていたのです。
その後、お父さんがつね子さんと同じ故郷の青森県出身の松坂氏に入魂し、「松坂」姓を名乗るようになったそうです。
お父さんの英明さんが「清水」姓から「松坂」姓を名乗るようになって、松坂さんも「松坂」姓を名乗るようになって、松坂慶子さんは女優になり有名になるのですが、
ある日、英明さんのところに、某大手新聞記者から「あなたの旧姓も過去もよく知っていますよ」との手紙を受け取ったそうです。(「ハッハッハ」)と笑い声まで書いてあったそうです。
松坂慶子は父親の帰化によって日本国籍を取得していた
英明さんは自分の戸籍を勝手に調べられていたことにぞっとしつつ、悔しくもあり、何より、娘の将来を案じたことから帰化を決心したそうです。
知人の力を借りて法務省と交渉すると、その結果1964年それまで「幼少期に身売りされたことから」戸籍がなかった妻・つね子の戸籍が回復。
そして、松坂さんをつね子さんの非摘出子(法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子供のこと)として、つね子さんの戸籍に入れたことで、松坂さんは日本国籍となったそうです。
松坂慶子さんは1964年12月の時に帰化し日本国籍を取得されたそうです。
したがって、松坂慶子さんは12歳まで韓国籍の韓国人で、ハーフでもあります。
また、その後、英明さんとつね子さんもようやく入籍することができたそうです。
これらのことは1993年に松坂さんの両親が出版した「娘・松坂慶子への「遺言」で公表されています。
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松坂慶子・プロフイール
- 本名:高内慶子(たかうちけいこ)
- 出身地:東京都大田区
- 身長:162cm
- 血液型:A型
- 職業:女優・歌手・司会者・タレント
- ジャンル:映画・テレビドラマ・タレント
- 活動期間:1967年:デビュー
- 1979年:「水中花」
- 1982年:「鎌田行進曲」
- 1985年:「春の波動」
- 2008年:「篤姫」
松坂慶子の生い立ち
松坂慶子さんは韓国人の父と日本人の母との間に生まれています。
早産で未熟児だったといいます。7歳弟がおり4人家族です。「イングリッドマーグマン」のような綺麗女性になってほしい」との思いからいくつもの習い事を掛け持ちしていたという。
小学2年の昭和35年の時に「クルミ芸術学園」に入り歌唱歌、ピアノ科、児童舞踊家を受講しています。
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松坂慶子の経歴
1966年の(昭和41年)中学2年の時に「劇団ひまわり」に入団。
1967年幼児向けコメデイ「忍者ハットリくん+忍者怪獣ジィポウ」(NET)でテレビ初出演。
1968年15歳の時「ウルトラセブン」第31話「悪魔の住む花」(1968年5月5日放送)にミクロ怪獣ダリーに寄生された少女・カオリ(香織)役で出演。
1969年(17歳)の時に大映からスカウトされます。「ある女子高医の記録 続・妊娠」で女子高生として、スクリーンデビューしています。
1970年TBSテレビ「おくさまは18歳」、「なんてったって18歳」
1971年(昭和46年)、映画「夜の診察室」で、主演予定だった渥美マリの降板よる代役で映画初主演。
1973年(昭和48年)NHK大河ドラマ「国盗り物語」で濃姫を演じて広く知られる。
1975年(昭和50年)、時代劇「江戸を斬る」に出演。
1978年(昭和53年)の映画「事件」で清純派から脱皮をはたす。
1979年(昭和54年)の映画「配達されない三通の手紙」でも体当たりの演技を見せ、トップ女優に踊り出ています。
同年放送のTBS系テレビドラマ「水中花」に主演。また、同主題歌「愛の水中花」をリリースし、大ヒット。
ドラマ劇中に披露した妖艶なバニーガール姿も話題になっています。
世の男性は全員魅了されてそして愛人にしたいと思ったそうです。
「愛の水中花」のレコードジャケットはその衣装を着用した写真で、その衣装でTBSの音楽番組「ザ、ベストテン」にも出演されています。
1980年代も「青春の門」、「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」、「鎌田行進曲」、「人生劇場」、「火宅の人」などの映画や、テレビドラマではNHK代がドラマ「春の波動」などの作品に立て続けに主演・出演しています。
深作欣二監督との不倫関係?
このころの松坂さんは深作欣二監督する映画・テレビドラマに多く出演していることから2人は不倫関係だったと言う噂もあります。
松坂慶子さんは深作欣二監督の才能に惚れこみ、
「深作監督のお陰で本当の女優になれました」と語っており、
深作監督もまた、すっかり松坂さんに惹かれて、二人の関係は、業界では公然の秘密となり、不倫関係は長く続いたと言われていますが、不倫の事実を語るも決定的な証拠写真はないとそうです。
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松坂慶子の家族
松坂慶子の両親
父親の松坂英明さんは、韓国から職を求めて小舟で渡ってきた韓国人です。母親のつね子さんは幼少期に身売りされた過去があります。
両親とも壮絶な人生を送られた来た人です。詳細は前記事に書いてあります。そちらをご覧ください。
そのご両親から誕生した美しい松坂慶子さんです。女優としてトップに上りつめています。
その慶子さんですが、いくつかの恋物語がありますが、結婚した相手の男性が無名のギタリストの高内晴彦(ハル高内)です。
松坂慶子の結婚
松坂慶子さんの1991年1月ニューヨーク在住のジャズギタリスト高内晴彦さんと結婚しています。
- 生年月日:1954年8月5日
- 出身地:杤木県宇都宮市
- 出身校:東京造形大学美術科卒業
- 6歳からピアノ、15歳からギターを習い始め、高校1年生の時に、ジャズ、ギターのプロを目指し、大学時代にジャズ研究科で活動。18歳の時に渡辺香津美氏に2年間師事。
- 1980年、大学卒業後、ニューヨークへ渡り、自己バンド「HIKO BAND」を始動開始して1984年デビュー。
松坂慶子と旦那、高内晴彦の馴れ初め
松坂慶子さんと旦那」(夫)高内晴彦さんとの出会いは1986年ごろ、松坂慶子さんがニューヨークに訪れた時に友人の紹介で出会っています。
松坂慶子さんは「高内晴彦さんにニューヨークのウォール街を案内してもらった時、急に頼もしく思えて高内晴彦さんと一緒にいると、ゆったりとした気持ちになれる自分にきずき惹かれた」と語っており結婚を意識したそうです。
一時期は結婚のために女優を辞めちゃおうかと思ったくらい高内晴彦さんにべた惚れだったそうです。
とにかく二人の時間を大切にするために、2週間以上離れて生活することのないよう約束していたそうです。
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松坂慶子の父親は結婚に反対していた!
松坂慶子さんの父親の英明さんは高内さんとの結婚には猛反対していたそうです。
反対の理由は、高内さんが無名の売れていないミュージシャンで、その上は内緒で結婚したからだと言われています。
結婚当時は高内さんは父親が週刊誌に激白していた通り、松坂さんに日頃から経済面をサポートしてもらっていたかも知れません。
高内さんは、徐々に人気のミュージシャンとして成功をおさめ、NYで1日500万円の仕事をこなすようになっていたといいます。そして東京の原宿のマンションがもうすぐ手に入る。と言う内容のことを言っていたようですが、松坂慶子のお父さんは「嘘だ」と一切信じないで、「あの男は娘を利用しているんだ」と一切耳を傾けなかったそうです。
そして、実家の表札から「慶子」の名をドリルで削り取ったそうです。
結婚の事後報告に両親は大激怒
父親の英明さんは
「あんなヒモみたいな男をかばう娘も許さん
と松坂慶子さんに怒りの矛先を向けます。そこまで言われて、両親に結婚を認めてもらうため、話し合いの場を持ち続けたわけですが、ついに松坂慶子さんもプッツンと切れて。
高内さんを「これでもか」と言うくらい悪く言う両親を許すことができず、無視して、結婚式も両親に黙って、1991年1月2日にニューヨークで挙式。そして、結婚式を隠れて開いたことを知り両親は大激怒して1992年に絶縁を宣言したのであし。
そんな父親の英明さんは2006年に糖尿病を患った影響で寝たきり生活に。そして2007年12月に亡くなってしまいます。
晩年は、松坂慶子さんは介護しており、父親とは和解したそうです。(高内春彦さんとは義父は和解されなかったそうです。)
英明さんは、二人の可愛い孫とはいっさいその姿を見ることはなかったそうです。残念ですね・・・
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高内春彦は松坂慶子の母親の介護で和解
母親のつね子さんは92歳になり認知症によって車椅子生活を余儀なくされたため、2012年にニューヨークから日本に戻り東京世田谷区の実家に高内さんと共に戻って介護を続けたそうです。親子絶縁状態から28年目のことだそうです。
2021年春に100歳で亡くなるまで、計8年間もの長い介護されたそうです。
高内春彦さんの最後は義母と和解できたそうで、良かったと思います。
天下の美人大女優に松坂慶子にふさわしい男性はそういるもんじゃないと思いますが、苦労して育てた娘に無名の男に取られるのが我慢できなかったと思います。けれど娘が惚れて選んでしまったのですから、どうしょうもありません。
老いては子に従えと言いますが、最後は娘夫婦が親孝行されたことが最良の結果だと思います。
松坂慶子の子供
松坂慶子さんには2人の娘さんがいます。長女の名前は高内百音(もね)、次女の名前は高内茉莉彩(まりさ)さんです。
二人はアメリカ生活が長いことから、MONET、MARISAと英語表記されることが多いようです。
親子3人でそろってテレビ出演したことがあります。2008年にNHKで放映された「英語テレビ講座」と言う番組です。
松坂慶子さんの娘2人が出演したのは、英語テレビ講座の企画「3カ月トピック英会話「赤毛のアン」への旅~原書で親しむAnneの世界~」です。
赤毛のアンの作者であるL・M・モンゴメリが生まれ、そして小説の舞台ともなったカナダで撮影が行われました。
元々、松坂慶子さん親子は赤毛のアンの大ファンだったそうです。親子共演できるなら是非、大好きな物語に触れる会うことができる番組で、と言う松坂慶子さん側の意向組んで実現したそうです。
出演当時、百音さんは16歳、茉莉彩さんは13歳です。
番組がオンエアされると状況が一変されます。
松坂慶子さんには似ていない、本当に松坂慶子さんの娘?ブサイクなどと言った声が上がっています。
一般人の2人に対するコメントとしては辛すぎるないようです。
このことがきかっかけどうかはわかりませんが、それ以降テレビ番組には出演して芸能活動はしていません。
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