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三谷幸喜の若い頃の驚愕のエピソード12選!
三谷幸喜さんは劇作家、脚本家、演出家、映画監督、であり自身も俳優でもあります。
作品は基本的には喜劇であると言われていて、これまでになかった新しいコンセプト作品を得意としています。
徹底的に理詰めでストーリーを作る一方で、魅力的な人物な人物描写も他の作家の追随を許さないと言われています。
「集団が力を合わせて困難を乗り越える」「切羽詰まった事情により、本来の自分とは違う何者かを演じる」という枠組みを持った物語が多い。
そんな中で今回5年ぶり脚本・監督で三谷幸喜の最高傑作が2004年9月13日封切り、長澤まさみ主演映画「スオミの話をしよう」が公開されます。
そこで今回は三谷幸喜さんの若い頃の驚愕のエピソード12選を紹介します。
- 三谷幸喜の本名の「幸喜」は相撲好きの父親によって名づけられた
- 三谷幸喜は小学生の頃チャップリンに憧れて、スイスの自宅まで会いに行った
- 世田谷区立給田小学校時代「とんねるず」の木梨憲武と同じサッカークラブに所属していた
- 大学時代に劇団「東京サンシャインボーイズ」結成の初期には「一橋壮太郎」の芸名で役者をしていた
- 日大学藝術学部演劇学科の3年後輩の大田光から「三谷さんは学生の頃から人気物だった」と言われていた
- 台本の締め切り間近まで仕上がらないことで有名、また行き詰まるとティッシュペーパーを大量に箱から出す
- 性格は神経質で、インターネットでは自作の否定的な意見に対して創作りを減退させるという理由でほとんど見ない
- 映画マニア、子供のころからテレビで放送される、洋画を中心に大の映画マニア
- テレビ狂でもある、本人曰く「三度の飯よりテレビ大好き」
- 結婚した小林聡美に婚姻中にダメ出し
- 12歳の頃に盲腸炎にかかり手術医の失敗により再手術を受ける
- 手の甲がやや毛深い
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驚愕のエピソード①三谷幸喜の本名の「幸喜」は相撲好きの父親によって名付けられた
三谷幸喜さんは東京都世田谷区出身です。父親が好きだった大相撲力士・大鵬幸喜(当時は大関、のちに横綱に昇進)にちなんで「幸喜」(こうき)と命名したと言います。
両親は九州出身で、父親は福岡市の中州でクラブを数店舗経営していた実業家でした。
三谷自身も一時、福岡市に移住していたことがあり、家は裕福であったが、父親は三谷さんが10歳の時に亡くなっています。
三谷さんの父親像
三谷さんの父親はクラブを数店舗経営していた関係で「家からいつも会社に電話して部下を叱っている」光景が残っているといいます。
幼少期は怒る父の姿が嫌だったようです。怒られていた会社の人たちは三谷さんは良く遊んでもらった顔なじみの人たちだったからです。
三谷さんは劇団のトップになられて父親が反面教師になり「怒らない三谷幸喜像」が出来上がったかもしれません。
しかし、人の上に立つ大変さや辛さが自分の中にインプットされ「リーダーになったことが失敗」と記述さています。
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驚愕のエピソード②小学生の頃チャップリンに憧れて、スイスの自宅まで会いに行った
1961年東京生まれの三谷さんは、1人っ子、当時一緒に暮らしていたのは、母の直江さん、と祖父母、年の離れた叔父とおばの7人。交わされた言葉はすべて大人の言葉。
そのため近所に住むおばさんに「こんにちは」と話しかけられると「こんにちは、奥さん。よく見かけますね」と大人びた挨拶をしていたという。
母の直江さんは「幼稚園の時にマンガを読んでいましたが、小学校に入った時は物語の本にハマって。自分で書店に行って買って来て読んでいたという。」
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母を驚かせた驚愕の人形劇
2019年9月19日「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)自宅で取材を受けて話す、三谷幸喜さんの母親直子さん
小学2年生の頃、人形劇に夢中だった三谷さんが母の日にプレゼントしたのは自作の人形劇だという。
母の部屋に手作りのジオラマを一人で制作し、音楽を流して、ストーリーに合わせて、人形を動かしていく、場面に合わせて照明を変えるなど、まるで舞台のような演出を施していて直江さんにとって驚愕の人形劇だったと言います。
「こんな小さい子がここまでできるのかと感動しました。「ママのために作ったのですぐに壊していたのでそれを知っているのは私と息子だけ。この人は脚本家の道へいくんだなと思って見ていました」と述べています。
スイスの自宅前まで行ったのに対面はかないませんでしたが、似顔絵を秘書に手渡したところ、1か月後にサイン付きで返送されてきたといいます。
番組MCの坂上忍さんが「チャップリンに会えたんですか?」と聞くと
三谷さんは家に行ったけど会えなかったんです。
「そこで僕がチャップリンの絵を描いて秘書に渡してください」と言って帰ってきたんですけど数カ月たって絵が送り返されてきて、そこにサインがありました」とエピソードを明かして、坂上さんは驚きましたが、ところが子供だった三谷さんは「せっかくあげたのに、なんで送り返してきたのだろうと当時は納得がいかなかったという。
天才・三谷幸喜と呼ばれていますが、お母さんが凄いと思います。
まだ、未知数の小学生の三谷さんの素質を見抜いていたかもしれませんが、息子の憧れているチャップリンに会いに学校を2週間休ませて、スイスまで行くその行動力は凄いとしかいえません。
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驚愕のエピソード➂世田谷区立給田小学校時代「とんねるず」の木梨憲武と同じサッカークラブに所属していた
三谷幸喜は中学生時代木梨憲武と同じサッカークラブに所属
2022年に12月24日、ニッポン放送「八木亜希子LOVE&MELODY」(土曜前8・30)にゲスト出演。サッカーにまつわる思い出を語った。
三谷幸喜さんは中学生時代に「とんねるず」の木梨憲武と同じ八幡山サッカースクルークラブに所属していたという。
当時は面識がなかったけど共通の友人がいて、後になって知ったという。「木梨さんは1軍。僕は13軍だった。」4年やって15軍で終わったと語っています。
「(サッカーは)何で手を使っちゃいけないのかわからなかった」とチーム競技は好きかと聞かれると「大嫌いです。争いことが嫌いで、勝ちたいという意欲がないんですよ」言われています。
この2人が同じサッカークラブに所属をしていたとは驚きです。
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驚愕のエピソード④大学時代に劇団「東京サンシャインボーイズ」結成の初期には「一橋壮太郎」の芸名で役者をしていた
日本大学藝術学部で脚本つくりを学んだ三谷さんは1983年大学3年生に時に、ニール・サイモンの「おかしな二人」に影響を受けて、自ら劇団を立ち上げることを決意します。
そして翌年大学4年生の時に劇団チーム「東京サンシャインボーイズ」を結成。初期には「一橋壮太郎」の芸名で自ら役者も務めています。
現在でも活躍するメンバーは西村まさ彦さん、梶原善さん、相島一之さんなど映画やドラマで活躍されています。
念願の劇団旗揚げを果たした三谷さんだが、はじめた頃は全く客が入らず、劇団の経営は赤字。そこで三谷さん資金作りのため、バラエティー番組の放送作家をすることに。
ところが放送作家時代はとてもつらいものだった。企画会議では周りの話に乗り切れず「サザエさん」という大きな仕事のチャンスもものにできなかったという。
当時を振り返って三谷さんは「僕は放送作家にむいていない体質。『こんなクイズはどうでしょう』とかコーナーを考えて見せるんですけど、自分の中で面白いことを考えても、それを面白く伝えることができなかった」と話しています。
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「やっぱり猫が好き」の脚本で大ブレイク
その時は完全に心が折れた三谷さんは、すべての番組を降板。これで劇団の資金繰りを改善する当てがなくなってしまいましたが、その直後、人生を変える一本の電話がかかってくる。それは深夜ドラマ「やっぱり猫が好き」の脚本依頼。三姉妹が暮らすマンションを舞台に、せりふなのかアドリブなのかわからない掛け合いの応酬を繰り広げるコメディー。
このドラマをきっかけで、三谷さんは脚本家として大ブレイク。これをきっかけに劇団の仲間を出演させてもらうよう、プロデューサーに働きかけたという。
当時の心境を三谷さんは
「僕だけが階段を上がっちゃいけないと思った。みんな一緒にやっているから。だから、深夜のドラマからちょっとスペシャルドラマをやることになったら、この人たちを使ってくださいとお願いしていた」と明かしています。
こうして劇団員たちは有名になり、劇団の人気もうなぎ上り。評判が評判を呼んで公演は毎回満員御礼となり、個性はの劇団員たちも益々売れていったのです。
一方の三谷さんもドラマの脚本家としてテレビの世界でヒットを連発。
三谷さんは初のゴールデンタイムの連続ドラマ。1993年『振り返ればやつがいる』を皮きりに実績を重ねていった三谷さんは。NHK大河ドラマ『新選組』2004年既存の歴史小説を原作としないオリジナルの脚本で、大河ドラマでは異例の続編放送あり、自身も「人生最大のターニングポイント」
と語る作品になったと語っています。
突然の大人気劇団活動停止の理由
2019年9月19日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)で劇団活動停止の訳を話しています。
そして三谷さんは、脚本家として地位を確固たるものにし、劇団もチケットが取れないほど、順風満帆にもかかわらず、三谷さんは「充電期間」と称して突然「東京サンシィンボイズ」の活動を中止してしまいます。
その理由について三谷さんは「劇団が大きくなりましたが、マネージメントができなかった。そういうスタッフがいなかった、どうしょうと考えた時に「これは売り時」「今だったら、いろんな事務所が劇団員を引き受けてくれるんじゃないか」と思って、僕はみんなバラバラになったほうがいいと思う」その代わり、みんな入りたい事務所があったら、教えて欲しい絶対そこに入れるから」と話し希望を聞いて、それぞれの事務所に一緒に行って、お願いしました」と語っています。
人気脚本家になっても三谷さんは抱いていたのは「自分だけ売れても仕方がない」という思い。
劇団員たちが売れ続けるようになるには、プロのマネージメントが必要で仲間を路頭に迷わせないため劇団員一人一人を希望の事務所へと所属させることが自分の使命だと考えていたという。
三谷幸喜さんは本当に凄い人だと思います。なかなかここま出来る人はいないと思います。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑤日大学藝術学部演劇学科の3年後輩の大田光から「三谷さんは学生の頃から人気物だった」と言われていた
三谷幸喜って大嫌いなんですよ
abema・tvエンタメ石橋貴明ワールドで爆笑問題の大田光が「三谷幸喜ってだいきらいなんですよ」と発言しています。
「爆笑問題」の大田光は日大演劇学科の3年後輩で「三谷さんは学生の頃から。凄い人気だった」という。自分は教授とケンカしたりして演劇をあきらたから、「今でも三谷さんにはコンプレックスがある」とかたっています。
大田が在籍中に旗揚げした劇団「東京サンシャインボーイズ」ついては当時から知っていたという。
「それがメジャーじゃないけど、演劇界隈ではかなりの評判になっていたんです。そのころ俺はとにかくそういう小劇団のことを本当に嫌っていたから」と続ける太田に、
石橋が理由を尋ねると
「自分はまだ何もできないくせに、何かやっている」。しかもちょっとした内輪で人気になっていて、悦に入っている気がしたんです。」と説明。
同級生にはサンシャインボーイズの団員もおり、太田は代金を払って観劇したこともあるそう。太田は「それで三谷の芝居を観たりするわけですよ。それでそこそこウケているのがまた気に入らないわけですよ。『なんでこいつに金を払って、俺はこんなくだらない芝居を観ないといけないんだ』だから観に行っちゃ文句言って、客席でヤジ飛ばして芝居を台無しにしたりしていた」と、当時の荒れっぷりについて語った。
石橋さんは「どう考えても太田の逆恨みでしょ」とあきれ顔で、太田も「その通りなんだけど」と素直に認めています。
大田光さん、上田晋也さん、三谷幸喜さんのバトル動画は必見です。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑥台本の締め切り間近まで仕上がらないことで有名、また行き詰まるとティッシュペーパーを大量に箱から出す
大物俳優のおかげで引退を回避
三谷幸喜さんは2023年1月15日放送のTBS系「日曜の初耳学」に出演。
「伊東さんのおかげで今がある」と俳優の伊東四朗に感謝する理由を語っています。
昔は遅筆で有名で舞台初日に台本が完成せず、延期したことも、「こんなことを絶対に繰り返さない言って誓った」。また初日をずらすようなことがあったら、引退するって30代の頃に誓った」。
しかし、そう誓った矢先に、佐藤B作が座長を務める劇団東京ヴォードヴィルショーの舞台の台本が遅れてしまった。「初日をずらそうってなりかけた。B作さんが“本番まで1週間ない。本もほぼできてない。無理だから初日をずらそう”って」。「初日が遅れたら筆を折ると決めていた」三谷氏は「2度と舞台はやらないんだな」と引退がよぎったそうです。
そんな中で、出演者だった伊藤さんが「やろうよ。2日もあれば俺たちもできるよ。全然心配ない。ギリギリまで待とう」。その言葉にB作も納得し、三谷さんもギリギリまで書くことができて、結局初日は遅れるなかった」とした上で、伊藤さんのお陰で今がある」と感謝しています。
31年前に伊東四朗さんは三谷さんの演劇を見て、こんな見事なパロディーを書く人がいるんだと驚いたそうです。それで三谷さんの演劇に出演を決めたといいます。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑦性格は神経質で、インターネットでは自作の否定的な意見に対して創作りを減退させるという理由でほとんど見ない
三谷幸喜さんは神経質な持ち主で、自身の否定的な意見を目にし、創作力の減退を防ぐという理由から、インターネットはほとんど見ない。ただし、テレビ出演時や対談などでは、自分の「神経質」を過剰に表現してギャグにして笑わせるという手法を使うことが多いという。
気難しい一面を現す例には、なかなか他人を家には入れないことがある。コリコリの田中直樹にフィギュアのコレクションを見せると約束しながら、自宅に訪れた田中を玄関の外で対応し、中には居れなかったそうです。
また、妻・小林聡美の父親が、小林の外出中に訪ねてきたときも自宅に入れないほどだったそうです。
妻のお父さんが訪ねてきて入れないとは、ちっと信じられない光景です。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑧映画マニア、子供のころからテレビで放送される、洋画を中心に大の映画マニア
三谷幸喜さんは、子供のころからテレビで放送される洋画に親しみ洋画を中心とした大の映画マニアだそうです。
和田誠さんとの映画対談集「キネマ旬報」に連載し「これまた別の話」では1998年度のきねま旬報読者賞を受賞されています。和田ファンである三谷さんは和田さんのタッチにそっくりの「似顔絵」を書くことができ連載をまとめた映画俳優たちの似顔を和田さんと共作しています。
映画では「大脱走」のような、グループで何か計画して実現させれ映画が特に好きで、そうした作品はテレビドラマの「スパイ大作戦」のような題名に「作戦」が付くものが多きことから、「作戦もの好き」称しています。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑨テレビ狂で、本人曰く「三度の飯よりテレビ大好き」
三谷幸喜は三度の飯よりテレビ好き
三谷幸喜さん子供の頃頃からテレビ狂で、本人曰く「三度の飯よりテレビが大好き」
多くのテレビ番組に詳しく、海外ドラマ、特に「刑事コロンボ」には精通している
他にも「ドラえもん」、「パーマン」「おそ松くん」などテレビアニメや「ポンキッキーズ」、「おはスタ」などの児童むけ番組にも詳し。
三谷さんが手がけたテレビドラマにも、これらの番組に使われたセリフや内容が度々登場すると言います。
また、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」初期かの頃から見続けた「夜のヒットフリーク」であり、映画「ラジオの時間」井上順が演じた役の設定は「夜のヒットスタジオ」での井上のキャラクターに基づくものであるとも言われています。
「探偵!ナイトスクープ」のファンでもあり、発売されたDVDは全巻揃え、2008年の映画「ザ・マジックアワー」公開前の宣伝活動では「依頼者」として出演されています。
「新八犬伝」や「人形劇三国志」などNHK連続人形劇のだいファンで、子供の頃からそのフィギュアを集めて人形劇の映像を作って遊んでいたという。
NHKから人形劇の脚本の依頼があったときも、スケジュールは詰まっていたがたの誰にやらせたくないという思いから引き受け、2009年の「連続人形劇 新・三銃士」で子どもの頃からの夢だった人形劇を手がけています。
NHKの大河ドラマは1970年代から視聴しており、特に三谷の中学から大学時代前半の頃に放送されたいた番組。
- 「風と雲と虹と」
- 「花神」
- 「黄金の日日」
- 「草燃える」
- 「獅子の時代」
に熱中してといいます。
「風と雲と虹と」の最終回が放送された晩、加藤剛演じる平将門と、その敵役で露口茂の演じる田原藤太を夢游病のような状態で演じていたのを母親に見られたというエピソードがあります。
「風と雲と虹と」で露口が演じた田原藤太の「黙れ小僧!」という台詞を露口へのリスプクトとして、自身が手掛けた「真田丸」の中で西村雅彦の台詞に使いその台詞が話題になっています。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑩結婚した小林聡美に婚姻中にダメ出し
三谷幸喜は1995年に女優の小林聡美と結婚して2011年に離婚
- 小林聡美さんのプロフィール
- 出身地:東京都葛飾区
- 生年月日:1965年5月24日
- 所属事務所:シャシャ・コーポレイション
三谷さんと小林さんは1995年に結婚されたいましたが2011年に離婚されtいます。二人の間には子供はありません。
小林さんとの離婚の原因は
小林さんとの婚姻中のある日、小林が出演したドラマを夫婦で自宅で見ていたが三谷が演出家の目線で彼女の演技にダメ出し、気まずい雰囲気になっったことでそれ以来(離婚までの間)三谷は小林の出演ドラマを見ることが禁止になったという。
三谷さんは婚姻時に小林さんを女優として尊敬しており自身の作品で演出したいと思いがあったが、実際にそれをすると周りの役者やスタッフがやりにくくなるという理由から、当時小林と話しあって夫婦関係がダメになったら一緒に仕事しょうとの結論になったとのことです。
小林聡美との馴れ初め
三谷幸喜さんと小林聡美さんとの出会いは、三谷幸喜さんがブレイクのきっかけになったドラマ「やっぱり猫が好き」といいます。
脚本家と主演女優として知り会い、三谷さんから、猛アプローチをかけたといいます。
三谷さんは猫アレルギー、三谷さんの課題は小林さんが連れてきた二匹の猫と仲良くなること、無理やり抱きしめても引っかかれる毎日だったという。
結婚して半年ご小林さんが仕事で海外に出かけていた留守中に奇跡が起きたと、三谷さんがいきなり呼吸ができなくなって目を覚ますとそれまで絶対に一緒にいてくれなかった彼らが5㎝のところに二つの顔を並べて寝そべっていたという。
三谷さんのエッセイ「三谷幸喜のありふれた生活」(朝日新聞出版)の中で「猫と家族になった朝」として綴っています。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑪12歳の頃に盲腸炎にかかり手術医の失敗により再手術を受ける
三谷幸喜さんは12歳の頃に盲腸炎にかかって手術医の失敗により再手術を受けることになり、その結果入院などで半年間も学校へ通えなかった時期があるそうです。
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三谷幸喜の驚愕のエピソード⑫手の甲がやや毛深い
これは、エピソードになるかわかりませんが、手の甲がやや毛深いと指摘されています。
松本幸四郎が手の甲が毛深いと指摘
松本幸四郎(現:2代目松本白鷗)さんは三谷幸喜さんの第一印象について手が毛深い手を挙げており、同様に毛深かった菊田一夫の姿が脳裏をよぎったと語っています。
後年、幸四郎さんは三谷さんに初めて出会いを振りかえり「菊田一夫が再来したような気持ちになりました。ある種の才能を持った人が、いま目の前にいると感じました。」
と述懐しています。
松本幸四郎さんも三谷幸喜さんの才能を認めているとは凄いです。
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三谷幸喜のプロフィール
- 本名:三谷幸喜(みたにこうき)
- 生年月日:1961年7月8日
- 出身地:東京都世田谷区
- 学歴:日本大学藝術学部演劇学科卒業
- 配偶者:小林聡美(1995年~2011年)
- 配偶者:yuma(本名・中山圭織)2013年~
- 所属事務所:シス・カンパニ
お相手は「丸顔の一般女性」といい「お付き合いを始めたのは昨年から」と報告。また、結婚を決意した理由について「今年2月に僕が長年連れ添った愛犬を亡くし、元気がなかった時にそばで励ましてくれたのが彼女でした。その頃から、結婚を意識するようになりました」と話しています。
三谷幸喜は2013年に現在の妻・yumaと再婚。年齢差19歳!
三谷幸喜さんは2011年に女優・小林聡美さんと離婚すると、その2年後の2013年7月に元女優・yumaさんと再婚しています。
再婚相手のyumaさんは三谷幸喜さんよりも19歳も年下で、当時は19歳の年齢差がメディアで話題になっています。
三谷幸喜とyumaの馴れ初め
三谷さんとyuma さんの馴れ初めはyumaさんが女優を引退した後だと言われています。
妻・yumaさんは俳優を引退した後に早稲田大学に進学し、卒業後に映画製作会社に就職。
仕事の関係で三谷幸喜さんの「マジックアワー」の制作に携わり、そこで2人は知り会いになっています。
そして、2012年に交際に発展し、2013年に三谷幸喜さんが子供のように可愛がっていた愛犬が亡くなった際に支えてもらい結婚を決断したということのようです。
2014年に第一子の長男が誕生
2013年に19歳年下のyumaさんと2度目の結婚をした三谷幸喜さん。
再婚した翌年の2014年にyumaさんとの間に第一子の息子が誕生しています。
三谷幸喜氏(52歳)に3058グラムの第一子男児が誕生したことが24日、わかりった。所属事務所が公式サイトで発表した。誕生したのは6月初旬で、母子ともに健康という。
子供が生まれてからの三谷幸喜さんは、打ち上げをさぼって妻子とお出かけしたり、すっかり子煩悩のお父さんになっています。
2013年に三谷幸喜さんが再婚された女性は、一般女性と報道されていましたが、その後い嫁さんは元女優だったと週刊誌に伝えられ、もと女優のyumaさんが特定されたのです。
- 芸名:yuma
- 本名:中山圭織(なかやまかおり)
- 生年月日:1980年10月4日
- 出身地:静岡県
- 血液型:B型
- 身長:164センチ
- 職業:女優・歌手
- 趣味:声楽(イタリア歌曲等)、水泳、フルート、クラシック鑑賞、読書
yumaさんは子供のころカナダに移住経験があり、たくさんの習い事をしていたということで、実家はかなり裕福だと思われます。
女優を辞めた後に早稲田大学に入学されているので、元々かなり知性のある女性だということがわかります。
三谷幸喜さんは天才と言われ、数々の作品を世に送り出して、一人として無駄にしないその個性をださせる、脚本家、演出家といわれます。そして私生活では19歳年下の奥様とお子さんに恵まれ、さらなる良い作品を世に出し続けると思います。
最後までご覧くださりありがとうございます。
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