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1979年(39歳)のデヴィ夫人
1979年に入国禁止措置が解かれて、デヴィ夫人は単身でインドネシアに帰国しています。
一番の大きな理由はカリナを一人前の娘に育てるためにお金が必要でインドネシアの個人資産の引き上げと、スカルノ大統領の遺産の行方を確認することだったようです。
個人資産の一部はスイス銀行に送金することはできたようですが、遺産の行方は諸説があり定ではありません。
デヴィ夫人は、は直ぐにパリに戻るつもりでしたが、インドネシア政府との話し会いが難航してしまいます。
デヴィ夫人は、折衷案としてインドネシア国内で石油関連事業を立ち上げて、10年間必死に働いて、パリに戻ります。
実際にはかなり後になってインドネシア政府からスカルノ大統領第3夫人として遺産の分与が行なわれたことがわかっている。
- 1979年、スカルノ大統領の三男が結婚する時にインドネシアに戻りました。
- 私は自分の娘(カリナ)を一度はインドネシアに住まわせて、歴史を習わせ、異母兄弟たちと仲良くしてもらうことが、妻として、母としての義務と責任だと思っています。
- いよいよ時期到来が来たと思い、そして米英のエンジニア会社やフランスの建築会社、イタリアの重工業会社の総エージェントとしてインドネシアで10年働いています。
- 私が贅沢な生活をできるのはスカルノ大統領の遺産だとか、大統領のおかげだと思われるのがすごく嫌で、スハルト政権下で私の能力はここまであるんですよって、みんなに示してあげています。
- 朝、秘書たちが8時に来る前に私は7時からオフィスにいて、夜10時まで働いてます。
メンテン地区という高級住宅地に自分の力で家を建ています。
すぐに戻ってくると言った母は、それから10年も帰ってこず、自分は母親から見捨てられたのだと思ってしまう。
10年後、母デヴィ夫人が戻ってきても、カリナの心は閉ざしたままであったといいます。
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1991年(51歳)のデヴィ夫人
デヴィ夫人はカリナと住みたいためにニューヨークに移住しています。
でもカリナとは一緒に住むことはありませんでした。それだけカリナとの確執は大きかったのです。
1987年、カリナは20歳の時にボストンにある、マナーパインカレッジ(4年制の女子大学)の入学しています。
カリナがアメリカの大学に進学する際、アメリカで一緒に住もうというデヴィ夫人の提案を拒否して、カリナはアメリカで1人暮らしを始めています。
デヴィ夫人と同じように頑固だったカリナは、それから一度も母と会わずに暮らしたそうです。
デヴィ夫人はニューヨークの一等地の豪邸に一人で住むことになってしまいます。
デヴィ夫人のニューヨークの自宅は、セレブが多数住んでいるパークアベニュー62丁目にあり、築100年以上のニューヨーク市指定歴史保護地区内建造物である。
2005年にカリナが結婚する際、デヴィ夫人は、結婚式に母として参列することを拒否されてしまう。
何としてもカリナの花嫁姿が見たかったデヴィ夫人は、一般客として結婚式に出席することを許されたのである。
パリに一人残されたカリナの心の傷は、それほど深かったのだ。
デヴィ夫人とカリナが和解するのは、カリナが長男キラン君を出産してからです。
自分が子供を持って育てるのがどれほど大変か身をもって実感できたからでしょう。
デヴィ夫人とカリナが仲直りできたことは、本当に良かったと思います。
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