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八代亜紀(やしろあき)さんが昨年の12月30日、急速進行性真質性肺炎のため死去したことを9日所属事務所が発表しました。(73歳)。
心よりお悔やみ申し上げます。
八代亜紀さんは美貌の顔から似合わない艶っぽいハスキーな声から歌う演歌は独特の雰囲気でした。
こんな若さで亡くなられるなんて信じられません。
ここで改めて八代亜紀さんの本名と芸名にまつわる生い立ちを振り返って紹介します。
- 八代亜紀の本名は
- 八代亜紀の芸名の由来
- 八代亜紀の元(夫)と結婚・離婚理由
- 八代亜紀は韓国人でもハーフでもない!日本人(父親・母親)
- プロフィール
- まとめ
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八代亜紀の本名は
八代亜紀さんの本名は橋本明代(はしもとあきよ)です。
熊本県矢代郡金剛村(現:八代(やつしろ)市)出身です。
1950年8月29日父・橋本敬光(はしもとけいみつ)さんと母・橋本タミ子(はしもとたみこ)の間に生まれています。
八代亜紀さんの両親は結婚を反対されて若くして駆け落して田んぼのなかに建つ農機具置き場が住まいだった。
父は浪曲など歌が非常に上手だった。また、父親は若い頃画家志望だったこともあり、八代は幼い頃から絵画教室に通っていた。当時は休日に母が作ってくれた弁当を持って父をと一緒に写生に出かけ、休憩がてら父のギターによる弾き語りを聞いていたという。
父親は、芸が多彩な人だったんですね。だから八代さんもその系統を引き継いでいると思います。
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八代亜紀の芸名の由来
八代亜紀さんの芸名の由来は「熊本県八代市」
八代亜紀さんの出身は熊本県八代市なので『やつしろし」ですが、語呂をよくするために芸名は八代「やしろ」にしたそうです。
下の名前は本名の「明代(あきよ)」を呼びやすくするために、「亜紀(あき)に変更したそうです。
そのようなことで芸名は「八代亜紀」になったそうです。
漢字を「亜紀」に変更した理由については「アジア(亜細亜)で何世紀でも活躍できるようにと思いから変更したそうです。
またその名の通り八代亜紀さんは、日本やアジアだけだはなく、ニューヨークやパリでもライブを行って大活躍していました。
2012年、八代亜紀が演歌歌手としてデビューする前のクラブシンガー時代に思いを馳せ、スタンダード・ナンバーをカヴァーしたジャズ・アルバム『夜のアルバム』。大ヒットを記録した同作品は、日本のみならず米国を含む世界75ヵ国で配信されたことでニューヨーク公演が実現の運びになっています。
八代亜紀がクラブシンガーを志していた16歳の頃より憧れ続けてき現役最高齢の女性ジャズ歌手、ヘレン・メリル(82歳)さん。
「一流のメンバーと、本場ニューヨークの一流のクラブで歌えて、本当に幸せで夢のようです。客席からも音楽を一緒に楽しむ姿勢がひしひしと伝わってきて、音楽に国境はないんだなと思いました」と語っています。
八代亜紀さんの芸名を付け親は「テイチクエンターテイメント」
八代亜紀さんは、1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビューしています。
そこで、八代亜紀さんの芸名を「テイチクエンターテイメント」の会社が命名したということです。
株式会社テイチクエンタテインメント(は、日本のレコード会社である。通信カラオケ大手JOYSOUNDを運営するエクシングの連結子会社で、ブラザー工業グループに属する。
「テイチク」アーティストリスト一覧には有名の歌手の方々が沢山いらっしゃいます。
石原裕次郎さん、三波春雄さん、石川さゆりさん、前川きよしさん、関ジャニ∞など、多くの歌手の皆さんが在籍しています。
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八代亜紀の元(夫)と、結婚・離婚理由
八代亜紀さんの元(夫)は
八代亜紀さんの元(夫)は増田昇(ますだのぼる)といいます。
増田さんのプロフィール
- 名前:増田登(ますだのぼる)
- 生年月日:1954年
- 出身地:東京都
- 職業:陶芸家、陶芸講師
- ミリオン企画:代表取締役
増田昇さんは元テイチクの演歌歌手です。
八代亜紀さんと増田登さんは同じテイチクエンターテイメントで、1978年にデビューして二人は知りあいます。
増田登さんは歌手として売れず、挫折して故郷に帰ってしまいます。
そして、八代亜紀さんは増田さんの故郷まで出向き、
八代亜紀さんから「歌手を育てる方で頑張って欲しいと」と言われ
増田さんは八代亜紀さんのマネージャーに転身されました。
それから何年か、歌手とマネジャーの関係が続き、八代亜紀さんが個人事務所を設立され、増田登さんと八代亜紀さんは1989年から交際をスタートしています。
八代亜紀、増田登と結婚
1994年に八代亜紀さん(44歳)と増田登さん(39歳)はハワイ・オファ島で挙式を挙げ、二人は結婚しました。
増田登さんが長く八代亜紀さんのマネジャーで支えてきているのを見てお父さんの敬光さんが結婚を勧めたようです。
だから、八代亜紀さんの方から「お嫁さんになってもいいよ」という言葉を言ったようです。
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八代亜紀と増田登は離婚
八代亜紀さんと増田登さんは2021年1月に離婚していた事を約5カ月後に発表しています。
結婚後は増田さんは歌手を引退して、八代さんの個人事務所の代表取締役に就任して長年八代さんの芸能活動を支えてきましたが、離婚と同時に事務所の代表を辞任しています。
八代亜紀さんと増田登さんの離婚原因は
残り少ない人生を自由に生きたいと選んだ「双方の納得」の熟年離婚ということですが、八代さんの旧知の仲である浜村さんはこれを真っ向から否定しています。
2021年7月24日ラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)
「今年の1月、八代亜紀さんが70歳で離婚しています。(中略)離婚の原因は実際は婿はんの浮気ですね。同じ事務所に所属する30代の女性歌手とどうやら仲が良くなったらしい」(中略)「番組で話したことがすべてです。複数の音楽関係者から聞いたんですけどね。うっかりしゃべっちゃった(笑い)・・・」と苦笑いを浮かべた。
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30代の女性歌手はMILLEA(ミレア)?
八代亜紀さんの所属事務所は「ミリオン企画」この事務所は八代さん以外には歌手のMILLEAさんしかいません。
浜村淳さんの発信した内容の真相はわかりませんが、30歳代の女性歌手はミレアさんと言うことがわかります。
MILLEAさんは北海道札幌市出身でラジオDJとして活動していましたが、八代亜紀さんと知り合い2015年にメジャーデビューしています。
八代亜紀さんはMILLEAさんを娘のように可愛がっていたそうで、自分のラジオ番組に起用したり、自分のコンサートでも歌う機会を与えたりしていました。
ミレアさんは増田さんが離婚した同じ年に「ミリオン企画」退所して、個人事務所を設立しています。
八代亜紀さん自身は今回の離婚騒動について詳細を語ることはないとコメントをだしています。
記事の内容につきまして、
全く事実無根であり、ここに完全否定させて頂きます。記事の記載されている女性歌手が私の事務所に所属していた期間、最大限の愛情を注ぎ、教育してまいりました。それは元夫もスタッフも同じです。
今年独立した後も、可愛がっている後輩歌手の一人であるにも関わらず、このような事実ではない記事に書かれてしまったことによって彼女の活動に支障をきたすのではないかと心配でなりません。
私自身、数年かけて協議し、離婚という選択をいたしました。離婚については夫婦の問題であり、プライベートなお話なので、今後も公にお話しすることはありませんが、記事に書かれているような問題は全くないという事をここに明言させて頂きます。
八代亜紀さんはこのように述べています。
この問題を長引くさせたくない思いと、二人に対してのきずかいが感じられる文面になっています。
やはり苦労した人は違うなと思いました。惜しくも、お亡くなりましたが、八代亜紀さんの素晴らしい人間性を垣間見えて感動しました。
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八代亜紀は韓国人でもハーフでもない!日本人(父親・母親)
八代亜紀さんの家族は3人家族です。
- 父:橋本敬光(はしもとけいみつ)
- 母:橋本タミ子(はしもとたみこ)
- 八代亜紀:本名橋本明代(はしもとあきよ)
自慢の父について、
「凄くハンサムで恰幅も良くあ、男気が合って書もうまいし、墨をすりはじめる仕草や所作もカッコイイ。いつも堂々と明るく笑っている太陽見たいな存在だった。」
と話しています。
母のタミ子さんは、沖縄の琉球王朝の末裔だったそうです。
八代亜紀さんも調べた時に驚いて「世が世ならお姫様だったのかしら」と話していたそうです
八代亜紀さんの韓国人ハーフ説
八代亜紀さんはよく韓国人(ハーフ)ではないかと言われますが、両親(父は熊本県出身)と(母は沖縄県出身)で二人とも日本生まれなので韓国人ハーフではなく日本人です。
ここでハーフとも思わせれ写真を載せます。
ご覧のとおり日本人離れした綺麗な顔をしています。ハーフに間違われるのもむりもありません。
お母さんが沖縄県出身なので、顔の堀が深くハーフ系の顔をしているからそのように思わせていると思われます。
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プロフィール
- 本明:橋本明代(はしもとあきよ)
- 生年月日:1950年8月29日
- 死亡日:2023年12月30日
- 出身地:熊本県八代市
- 血液型:B型
- 星座:おとめ座
- 身長:162cm
- ジャンル:歌手、アーテイスト、画家
- デビュー:1971年・「愛は死んでも」
八代亜紀さんは、祖父が相撲甚句が得意、父は代の浪曲好きと言う家系で育っています。蓄音機で覚えた浪曲や美空ひばりの歌を歌詞の意味が分からないまま歌って周囲の大人を感心させる歌上手だった。
父や母に褒められるのは嬉しかったが、人前で歌わされられるのは嫌だったといいます。
父のもう一つの得意が絵だったのです。父は本当は画家になりたかったのです。
一枚の絵が運命を変えた
父がくれた鉛筆と画板を肌身離さず持ち歩いては、風景や家族や空想の世界を描くことに夢中だった少女でした。そして何気なく1枚のスケッチ画、彼女の運命を変えたのです。
ドレスを着た女性がマイクの前に立って歌う姿を描いた絵を、父が見ていて、レコード店で偶然、その絵とそっくりなジャケットのレコードを買ってきた。アメリカのクラブ歌手、ジュリー・ロンドンのアルバムだった。
それで中味を聴いてみたら、自分みたいなハスキーボイスだし、うっとりするぐらい大人っぽくて。わたし、小さいころからハスキーな声だったみたいなんですけど、それで自分も歌手になれるかも、と思いクラブ歌手になることを意識するようになる。スポンサーリンク
バスガイドから15歳でキャバレー
最初はバスガイドになれば歌えると思って、中学卒業と同時に地元のバス会社「九州産業交通(現・九州産業コウツウホールディングスングス)に就職してバスガイドとして勤務されています。
歌が歌えるはずが、地元の名所案内や日常の業務に追われ歌を歌うとは程遠い作業でした。そこでバスガイド仲間に教えられて(バス会社は3カ月で辞めています)、地元の熊本県八代市の「キャバレーニュー白馬」(現在も営業中)のオーディションを受けると合格。(この時は15歳だけど化粧して18歳と噓をついてオーデションに受けていた。)
家に帰ったら、不良の娘はいらんと激怒され、どうしてしたんやあと言われ、「東京に行って歌の勉強しとかあ」、と言ったらさらに激怒され、柱時計を投げつけられたと、そして、逃げるように東京へ行ったのでした。
それから約7年間勘当されたとままだった。
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新宿歌舞伎町「美人喫茶」で専属歌手に
東京のいとこ夫婦の家から音楽学院に通いながら、学費と生活費を稼ぐため「歌手募集」の張り紙を見つけて、店に入りオーディションを受け採用される、そこは新宿歌舞伎町「美人喫茶バラード」でした。コーヒー1杯がふつう80円の時代に、バラードでは600円。そういう高級店で、ドアガール兼歌手として働きはじめた。
銀座のクラブからスカウト
五木ひろしとの出会い
歌舞伎町で八代さんの歌は評判になり、1年もしないうちに今度は銀座のクラブからスカウトされたのです。17歳でクラブ『シルクロード』に入ったのを手始めに、のちに「五木ひろし」さんとなる三谷謙が専属で『エース』に移って。そのころ、新宿で10万円だった給料は20万円に上がっていました。
そのころは、毎日が楽しいかったといい、お給料も高いし歌を歌えばみんなが喜んでくれて、楽しい毎日でしたと述べています。
八代亜紀さんは「(あき)と呼ばれていた」の歌の評判が話題になり、沢山のスカウトが来たと言い、断り続けていましたが、「とにかくいちど、歌いに来てみないか」と口説きつづけたディレクターがいた。歌手・八代亜紀を世に出すことになる、テイチクレコードの影山邦夫さんでした。
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テイチクから歌手デビュー
デビューする気持ちを後押ししてくれたのが店で働いているおねえさんたちでした。
景山さんが何度も通ってくれて、それを見ていたおねえさんたちも「わたしたちはあきちゃんの歌をタダで聴けるけど、世の中にはあきちゃんの歌で泣きたい、悲しい女のひとがたくさんいるんだから、レコード出して」とか言われるようになって、しょうがなくて「じゃあ行ってみてやるか」みたいな超生意気な態度だったんですが、けっきょくレコード出すことになっちゃったんですね。それがデビュー曲の『愛は死んでも』でした。
レコードもって地方のキャバレー周り
デビューしたのはいいけれど、全然売れない、至難の連続です、クラブで働いていたときは、高い給料で良かったけれど、歌手になっても、レコードを自分で、全国を回ってトランクに同曲のレコードをたくさん詰めて地方のキャバレー周りをほぼ毎日繰り返して売り歩いていました。そして2枚目のシングルも売れません。
そして、一代決心して読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったのです。
逃げてたまるか、という気持ちで挑んでいましたね。
でも、若者なりにけじめはつけなければいけない、
という思いもありました。「全日本歌謡選手権」は、10週勝ち抜いて初めてグランプリです。
80点以上取らないと勝ち抜けできず、
その点に達しなければ合格者がゼロになることもある。こうなるともう、他人との戦いではないんです。
私は一応プロ歌手でしたが、アマチュアと同じ土俵に立ちますから、
ここで落ちたら救いがありません。最後まで勝ち抜けなかったら「八代亜紀」を捨てる覚悟でした。
正に背水の陣です。本当に凄い覚悟だと思います。
その甲斐あって徐々にレコードが売れ始めました。
1973年「なみだ恋」が120万枚大ヒットを記録。
ヒットした後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発する。
八代亜紀さんは「なみだ恋」が大ヒットして快進撃が始まります。
ここでは八代亜紀さんの代表的なシングル作品を記載します。
1974年1月 (シングル) | |
1974年5月 (シングル) | |
1974年9月 (シングル) | |
1975年1月 (シングル) | |
1975年5月 (シングル) | |
1976年1月 (シングル) | |
1976年9月 (シングル) | |
1977年2月 (シングル) | |
1979年5月 (シングル) | |
1980年4月 (シングル) |
1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」リリース。発売当初は売上が伸び悩んだものの、この年の「紅白歌合戦」で大トリとして歌唱されたことがきっかけとなり、
年明けから売上がぐんぐん伸び、オリコン15位を記録するヒット。
1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞して、NHK紅白歌合戦は2年連続大トリを務めた。
八代亜紀さんは、ほどなくして“演歌の女王”と呼ばれるようになったのです。
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まとめ
演歌の女王と呼ばれた八代亜紀さん。
芸能界に止まらず、八代さんと関係のあった自治体からも哀悼の言葉が寄せられています。
八代亜紀さんの人柄が偲ばれます。
八代亜紀さんの人生を振りかって見ましたが、改めて八代亜紀さんの生きざまに感動を覚えました。
八代亜紀さんは、新宿歌舞伎町の美人喫茶でアルバイトで歌って稼いだ時期がありました。そして、歌手のプロの意地で全日本歌謡選手権で10連続勝ち抜いた後、再デビューした曲が「なみだ恋」この歌も新宿が出てきます。
同世代の著者も東京に出てきて、最初は新宿歌舞伎町で働きました。当時、「ジャズ喫茶」とか「美人喫茶」あり、著者もよく出かけて行っていました。同じ空気を吸っていたとは感無量です。
まだまだ、活躍できと思うと残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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