スポンサーリンク
1959年(19歳)のデヴィ夫人
デヴィ夫人とインドネシア建国の父スカルノ大統領との「運命的な出会い」の真相
当時の日本はインドネシアに対して敗戦処理のために830億円の賠償金を払っていたのです。
その鍵を握っていたのがインドネシアの父、初代インドネシア大統領です。そしてその巨額の利権をを握ろうとして日本の政財界が動いていたのです。
日本の商社は巨額の賠償金を得るために絶大な権力をもつスカルノ大統領に接近を図っていたのです。
そこで目を付けたのがスカルノ大統領には無類の女好きであるという事。
運命的な出会い
赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」
デヴィ夫人はこの高級クラブで
インドネシア大統領と運命の出会いを果たしたと言われいています。
デヴィ夫人と同じようにスカルノ大統領にと出会い、インドネシアに渡った日本人女性がデヴィ夫人より先に存在したのです。
彼女の名前は周防咲子。(本名は金勢さき子ともいわれる)
クラブホステスだった周防咲子はいち早く賠償金ビジネスに食いついた中堅商社である木下産商によってインドネシアに送られる。
木下産商には岸信介首相が付いていたと言われる
これを面白く思わないのはライバル企業や政治家たちです。
伊藤商事をバックにした東日貿易商社の久保正雄社長が選んだ刺客がデヴィ夫人なのです。
木下産商のバックには岸信介総理がいたように東日貿易には自民党副総裁の大野伴睦や河野一郎。更に「昭和のフィクサー」と呼ばれる児玉誉士戦がみごとに成功したのです。
「英雄色を好む」というか、超美人の若いデヴィ夫人にバッタリはまったのです。
- 先にスカルノ大統領がパーティーでデヴィ夫人を見初めそれにめをつけた東日貿易関係者が高級クラブホステスに仕立てて改めて対面させたという説。
- 高級クラブで働くデヴィ夫人に目星をつけ高級クラブで対面させたという説。
「運命の出会い」も生臭いのは間違いないようです。
先に渡った周防咲子ですが、インドネシアに渡った語召い付豪邸をあてがわれスカルノ大統領の寵愛を受けて、「バスキ夫人」と言われておりましたが、そんな暮らしも、デヴィ夫人の登場で終わってしまいます。
1959年に周防咲子はバスルームで手首を切って自殺してしまいます。
この年にデヴィ夫人が「東日貿易の久保社長の秘書」として、インドネシアに渡った年と重なります。無関係ではなかったという事のようです。
デヴィ夫人が(根本七保子)をスカルノ大統領が滞在している帝国ホテルのロビーに七保子を呼びだし「あなたに会いたいという外国の要人がいると伝え、二人を正式に引きあわせています」
七保子の美貌と賢さにのぼせ上がったスカルノ大統領は、七保子をインドネシアに連れて行きたいと言い出したといいます。
しかし、頭の良い七保子は当時の政治情勢をよく理解して、自分が周防咲子のように政商と呼ばれる男たちに賠償金ビジネスの人身御供としてインドネシアに送りこまれることはわかっていた。
そこは貧乏で苦労した七保子は違っていました、これは「一世一代のチャンス」と捉えたと思います。
- スカルノ大統領には正式に結婚して大統領夫人とすること。
- 日本には日本側賠償金ビジネスの窓口は自分だけとすること。
一国の大統領と日本の政財界の大物たちを相手にこれだけの条件を付けるとは本当に凄い事だと思います。「デヴィ夫人は言っています、生きるとは真剣勝負だと。」
当時まだ19歳の女の子がこれだけのことを言えることはデヴィ夫人(七保子)は只者ではないことが分かります。
この二つを双方に約束させた根本七保子は単身インドネシアに渡ることにを承諾して、1959年(昭和34年)に19歳の若さで東日貿易久保社長の秘書としてインドネシア大統領のもとに旅立ちます。
スポンサーリンク
1962年(22歳)のデヴィ夫人
インドネシアに渡って七保子は賠償金ビジネスの窓口となることができスカルノ大統領と日本政府の仲介を見事にしてその存在感も日本政府は無視できない大きさになったといいます。
スカルノ大統領には献身的に尽くし信頼を勝ち取り七保子はインドネシアに渡って3年たった1962年に正式にスカルノ大統領と結婚して、インドネシア大統領第3夫人となり日本国籍から離れインドネシア国籍を取得しました。
スカルノ大統領61歳、根本七保子22歳,実に39歳差の結婚です。
スカルノ大統領は彼女に、Ratna Sari Dewi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)という名前を送っています。
サンスリット語でラトナは宝石、サリは聖、デヴィは女神を意味するといいます。
スカルノ大統領は七保子に「聖なる宝石のような女神」と名付けています。
デヴィ夫人には16000坪の宮殿が与えられ、38人の使用人に囲まれる大統領夫人の生活が始まったのです。
デヴィ夫人は賠償金ビジネスの窓口としてさらなる活躍することになります。その地位は日本の首相もデヴィ夫人を無視するこは出来ないようになっていたそうです。
スカルノ大統領もデヴィ夫人を寵愛して、その能力を高く評価してファーストレディーとして、外国の元首や要人の接待の当たらせたといいます。
1965年(25歳)のデヴィ夫人
1965年9月30日事件(軍事クーデーター)が勃発してスカルノ大統領が失脚してしまいます。幸福長く続かなかったのです。
スカルノ大統領は陸軍のスハルト将軍に事態の収拾を命じ、クーデーターを鎮圧しましたが、その責任を問われたスカルノは翌年1966年2月21日に新内閣を発表して政権を維持しようとしましたが、陸軍、イスラム系諸団体、学生団体などの反対による辞任しています。
同年3月11日にスカルノ大統領は秩序回復のため一切の権限をスハルトに与える命令書にサインして、その実権をスハルトに譲ったのです。
権力を握ったスハルトは、スカルノ大統領の身柄を拘束してしまいます。
スカルノ大統領の失脚に伴って、デヴィ夫人もファーストレディの肩書も失ってしまいます。
デヴィ夫人にも風あたりが強くなってきていましたが、事態を改善しようとしとスハルトに幽閉状態にあったスカルノ大統領の開放を頼みましたが、拒否されてしまいました。
スポンサーリンク
1967年(27歳)のデヴィ夫人
その後デヴィ夫人の妊娠がわかり、スカルノの勧めもあり、日本に帰り出産することになります。
軍事クーデーター勃発の時は亡命ができませんでしたが、出産のためと人道的措置から、一時入国が許可されています。
1967年(42年)3月11日、東京都内の慶応病院で長女カリナを出産しています。
正式名は「Kartika Ssri Dewi Soekarno」(カリナ)スカルノ前大統領にとって8番目の子供です。
出産後の体力の回復を待って、デヴィ夫人は、政治亡命者に比較的に寛容であるフランスに移住を決意します。
軍事クーデーター勃発時に日本政府から亡命を拒否されて以降、日本政府に不信感を持っていたからです。
この年に娘カリナを連れてフランスに亡命しています。
スポンサーリンク
1970年(30歳)のデヴィ夫人
1970年6月21日にインドネシア国内で幽閉状態であったスカルノ前大統領は亡くなってしまいます。
享年69歳です。
デヴィ夫人はスカルノ前大統領の危篤の知らせを聞いて、5歳になったカリナと乳母と3人で入国する前に「どうしても行くのなら命の保証はありません」と言われたと言う。
それでも入国を決行しています。ジャカルタ空港にはスカルノ前大統領第一夫人の娘が迎えに来てくれて、そのまま病床のスカルノのもとに向かい最後のお別れができたといいます。
その翌日1970年6月21日にスカルノ前大統領はジャカルタの病院で死去しています。
スカルノとの結婚生活はわずか8年間だといいます。
スカルノ前大統領がこのような遺書を書いてあるのは第二夫人・ハルティさんとデヴィ夫人ふたりだけだといいます。ハルテイさんの遺書は1965年に書かれています。
デヴィ夫人はスカルノ前大統領に愛されていたことがわかりますね。
デヴィ夫人はスカルノ前大統領の葬儀の後、亡命先のフランスにもどります。
スカルノが亡くなる数年前から情勢激変のため娘を連れてフランスへ亡命していたデヴィは、フランス社交界の華として名を馳せたそう。私には大統領夫人という地位、財力、若さ、美しさがあり、肌の美しさとただ一人の東洋人であったことで「東洋の真珠」と呼ばれて引っ張りだそうです。
そんな中、①スペインの銀行家・フランシスコ・パエサ氏と知り合う。再婚をも考えスイスで銀行を経営したが、スイス人以外が設立することは詐欺罪に当たる時代で、デヴィ夫人はパリに避難しパエサはすべての預金を返済したが居住権の問題で訴追され、デヴィ夫人が保釈金を工面したといいます。パエサ氏は「私はデヴィ夫人に愛される資格はない。」といい姿を消しています。デヴィ夫人の保釈金は戻って来なかったそうです。
続いて②デヴィ夫人の前に現れたのはルイ14世の家系だったサブラン公爵。2人は婚約を発表したが、夫人が白人でないことや相応の持参金がなかったこともあり7年間の関係でしたが結婚に至らなかったそうです。
コメント