【画像73枚】黒柳徹子の若い頃のケタ外れ伝説エピソード16選!若い頃は美貌とマルチ才能の可憐な美少女!

黒柳徹子 エンタメ

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伝説エピソード③小学1年生なのに問題児すぎて退学させられていた

黒柳徹子さんは尋常小学校1年生の時に問題児過ぎて退学させられる。

自身の著書「窓ぎわのトットちゃん」の中で話されています。

黒柳徹子の自伝1981年講談社から発売国内販売部数800万部、世界35カ国で翻訳され、販売部数2500万部以上販売されている。

黒柳徹子の自伝1981年講談社から発売国内販売部数800万部、世界35カ国で翻訳され、販売部数2500万部以上販売されている。

幼い頃は、窓際でちんどん屋に声をかけたり、机のふたを何度も開け閉めするなど、落ち着きのない、ちょっと変わった女の子だったため、先生から迷惑がられて、ついに、小学校1年生の時、退学させられています。

でも母親の朝さんは徹子が退学させられたことは言わないで、違う学校に行きましょう。と言い徹子に退学させられたことは黙っていたと言います。

お母さんは何と素晴らしい人なんでしょうか。こういう人がお母さんだといい人間に育つと思います。

人生の師トモエ学園長小林宗作先生に出会い。

こうして、小学校を退学になってしまった黒柳さんですが、お母さんが、徹子さんに悟

られないように、徹子さんに合う学校を探してくれたそうで、その後、トモエ学園」1年生に転校します。

徹子さんは、LD(学習障害児)と公表しています。そのことについては著書「小さいときから考えてきたこと」の「私ってLDだったの?」の項で触れられています

黒柳徹子若い頃の画像⑥可愛すぎる小学生時代

黒柳徹子若い頃の画像⑥可愛すぎる小学生時代

始めてトモエ学園小林先生に会った時に徹子さんは、前の学校の事、家族のことなど4時間も話したそうですが、小林先生は遮ることなく最後まで聞いてくれたそうです。

黒柳徹子の画像⑦はこんなに足が長くスタイルの良い子でした。

黒柳徹子の画像⑦はこんなに足が長くスタイルの良い子でした。

徹子さんの話を聞いて「先生から言われた言葉は君は本当はいい子なんだよ。」と声かけたそうです。

その後もみんなから疎外されたいたと感じていても、小林先生は徹子さんをいつも励まし続けていたと言います。

この小林先生のような方がもっと広く世の中に広まってほしいと願います。

黒柳さんの著書窓ぎわのトットちゃんは小林先生に捧げた本だと言います。

この時黒柳徹子さんの人生の師にであったいえます。と言っても過言ではないと思います。

黒柳徹子トモエ学園(トモエがくえん)は、かつて東京都目黒区自由ヶ丘(現在の自由が丘)に存在した私立幼稚園・小学校(旧制)リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られ、同学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』によって、一躍その名が全国に知れ渡った[1]。

トモエ学園(トモエがくえん)は、かつて東京都目黒区自由ヶ丘(現在の自由が丘)に存在した私立幼稚園・小学校(旧制) リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られ、同学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』によって、一躍その名が全国に知れ渡った

黒柳徹子の若い頃の画像⑧トモエ学園幼少期

黒柳徹子の若い頃の画像⑧トモエ学園幼少期

小林 宗作(こばやし そうさく、1893年6月15日 - 1963年2月8日)は日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。 本名:金子 宗作(旧姓:小林)。

小林 宗作(こばやし そうさく、1893年6月15日 – 1963年2月8日)は日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。 本名:金子 宗作(旧姓:小林)。

疎外感を感じはじめていたときに、今あるのは先生のお陰と黒柳哲子さん述べておられます。
小林宗作人物とはどういう人なんでしょう
日本におけるリズム教育・音響教育・ピアノ教育・総合リズム教育をひらいた人物であ
り、各方面からの評価は高いと言われています。
1893年(明治26年)6月5日生まれ
1963年(昭和38年)2月8日に死去されています。
日本リトミック研究者・幼児教育研究家で知られています。

小林宗作先生は群馬県出身です。

そして群馬県下仁田町で小学校の先生をしていたと言います。私の故郷であります。

黒柳徹子さんの記事を書いて、こんな凄い人がいたとは感無量です。

黒柳徹子さんも今あるのは先生のお陰だと延ばられています。本当にこんな先生がいたとは驚きです。

黒柳さんが本に書いた「窓ぎわのトットちゃん」により「トモエ学園」認知され小林先

生の存在を知りました。本当に立派な方だと思いました。

そして先生も草葉の陰できっと黒柳徹子さんの業績をたたえて喜んでいると思います。

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伝説エピソード④音楽学校を卒業後オペラ歌手を目指していたが挫折した

黒柳徹子さんはなぜオペラを諦めたか。

黒柳徹子の若い頃画像⑨30代

黒柳徹子の若い頃画像⑨30代

黒柳徹子さんは映画「オスカ」を見てオペラの歌手になりたいと思って、人に来たら、

音楽学校にいけば習えると言われたと言う。

そこで、母親も出ていて自宅から通える東洋音楽に進んだのです。

先生はソプラノに近いアルトの歌い方で徹子さんはコロラトゥーラの歌う歌手になりた

かったけど、その先生を探したが、見つからなかったと言います。

見つかっていたらその道にいったかもしりませんと言っています。

ちょうどその時に人形劇を見て、その人形劇が素晴らしかったので、自分の子供にもこ

んな人形劇を見せてあげたら喜ぶに違いないと思って、人形劇を教えてくれるところは

ないかと探していた。

黒柳徹子
黒柳徹子

新聞を見たら、テレビが始まるのでNHKで俳優を募集しているのを知り素人でも1年間養成してくれるいう。ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれないと応募したんです。

一日だけの記事だったのです。

徹子さんの人生は、偶然の連続のような気がします。それが、いいように転がるのがふしぎです。

黒柳さんは見事に幸運をつかんだと思いますが、そのように動けるのが黒柳さんの強みだと解釈します。

黒柳徹子さんが大フアンのマリア・カラスさん
マリア・カラス1923年~1977年(54歳没)マリア・カラスは、ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。

マリア・カラス1923年~1977年(54歳没)マリア・カラスは、ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。

黒柳徹子さんは、1年に1回演劇をやる時は、マリヤ・カラスさんの修練と勇気あとはゴミを肝に銘じて、一切の妥協しないで臨むと言います。

黒柳徹子さんは憧れのマリア・カラスの日本公演を見て自分もこのようにやろうと決心したと言います。

黒柳さんの演劇に対する姿勢が伺えます。その強い信念があるから長く続いていると思います。

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伝説エピソード⑤6000人の応募者から6次審査を勝ち上がり13人の劇団員の一人に選ばれていた

6000人の応募者の中から黒柳徹子が合格できたわけ。

黒柳徹子の最初で最後の就職活動。

徹子さんは「子供に上手に絵本とか人形劇やるお母さんになろう」と気持ちで応募して

います。履歴書は、郵送してしまい、後日、大きな封筒が届いたきていました。

合格かと思って開けたら、「なんで、貴方は郵送したのか」と、履歴書は特参することになっているという。

それが締め切りまじか、もうやめようかと思ったが、NHKは父と言ったことがあるか

ら、場所は知っていたから、もっていった。結果は次の日に見に来るように言われた。

1次審査は書類審査で合格しています

次の日に行ったら合格していたのです。

2次試験は早口試験とセリフの試験です。

赤巻紙、青巻紙、黄巻紙。徹子さんは、早口で言ったから審査員がどっと笑ったといいます。
早口は黒柳さんは得意だと思いますから合格は納得です。

3次は、筆記試験です。

徹子さんは、朝NHKに行ったら誰もいないから、守衛さんみたいな人に、「あんた何で

ここに来たの、試験は明治大学の講堂だといわれた」。

もうダメと思い新橋の方へ歩いていたらふと財布に1000円札が入っているのを思い出し

て、タクシー運転手にこれで御茶ノ水明治大学に行けますかと、聞いたら行けると言われ、急いで駆けつけています。

筆記試験は全然わからなかったたと言います。そしたら長所と短所を書くところあったので、これなら書けると長所を紙一面に足りなくて裏面まで書いて、短所も書いて、消しゴムで消したりして紙がぐしゃぐしゃになってしてしまった。
こんな試験でも紙をぐしゃぐしゃに出してしまう黒柳さんの度胸には驚きです。
応募者の人達は素人じゃない人たちも混じっていたと言います。
でも自分のできるやり方で、三次試験を突破してしまう黒柳さんはやはり素質が備わっていたと思われます。
そして、3次試験も合格しています。

黒柳徹子さんのNHKの応募の試験の様子がわかります。

これは、3次試験までの当時の様子を徹子さんの話術で面白く話されています。

この動画を見ていたらおかしくて爆笑してしまいました。審査員の人が笑ったのが分かります。漫才を見るよりも面白いです。

黒柳さんの人を引き付ける話し方、聞いていても飽きない、そして飾りのない魅力があると感じがします。

4次審査はパントマイムです。

黒柳徹子さんは同じ受験者にパントマイムってどうやってやるんですかと尋ねたら、笑

われたと言っています。(受験者は、パントマイムも知らないのかと言うような顔をしていた。)

演技は、別れの手紙をもらって絶望の中で嘆く様子をやる事。

黒柳さんは、走って行ったら試験管の前で転がり股を開いたまんま、延々と泣く真似の

演技したら、試験官が爆笑したと言います。

ああこんな事やるのはやだな…と言うつつ合格したのです。

⑤5次審査は歌です。

黒柳徹子さんが、あのやーど、わがやーど、と歌い終わったら、審査員がガラスの向こ

うからぞろぞろ出てきてを開けて

君!音楽学校行ってるって書いてあるけどこれ本当、声楽科って本当。

黒柳さんはこれはダメだなーと思ったという。

それでも、合格したのです。

6次審査は面接です。

いよいよ最終面接の時。いきなり試験官が、

きみ、黒柳って書いてあるけど、黒柳守綱さんと関係あるの、

と聞いてきたと言う。(こんな事言われるのが、ヤダから父は不明と書いたのに心でつぶやいて)

ちょっと考えて、しょうがないから

黒柳徹子
黒柳徹子

それは、父です

黒柳徹子さんは内緒で応募をしたので、父にいえば、
こんなみっともない事するなとか
この世界はだます人が多いとか

自分はNHKに入りたいけど、こんなことを話したらもう駄目だと思っていたと言います。

NHKの局長さんが黒柳さん宅に見えて、徹子さんをNHKに入れたいと思いますけど、お父様はどう考えているか聞きにきた。徹子のお母さんが、その事ならこちらで何とかしますから大丈夫です。
そして、徹子さんのNHK入りは決まっています。
さすがお母さんの一言で解決しています。どこの家庭は母は強です。

黒柳徹子さんのNHK合格の後編です。

徹子さんの楽しい話術満載です。見てて飽きない話し方はさすがだと思います。それが

自然と出るから、何度見ても面白いです。

田川さんがなぜ、受かったと思いますか、ときかれて、やはり運だと言っています。

著者は、黒柳徹子さんは、人を引き付ける魅力があると考察します。それが合格に結びつかたと解釈しています。

黒柳徹子さんは、いつでもありのままの自分を見せている。これが一番の魅力だと思います。

「テレビという新しい世界には“無色透明”な人が1人くらいいてもいいだろう」と、当時NHK文芸部のプロデューサーだった大岡龍男氏は後日、合格理由を明かします。

このように大岡龍男氏は述べています。

けど、黒柳徹子さんの魅力が審査員の気持ちを動かしたと見るべきだと思います。

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