インドネシアスカルノ大統領夫人
デヴィ夫人がスカルノ大統領に見初められる以前に先にインドネシアに渡った女姓がいました。
その名は周防咲子(本名:金勢さき子)。彼女は先にスカルノ大統領第三夫人になる予定でした。
ところが、ひにくなことにスカルノ大統領がデヴィ夫人(本名・根本七保子)を寵愛してしまい、絶望のあまり、バスタブで手首を剃刀できり25歳の若さで自らの命を絶ってしまいました。
今回、金勢さき子さんの生い立ちから、なぜ、25歳の短い人生を閉じたかを検証したいと思います。
昭和の日本の政財界、そして巨額の**「国家賠償・国際投資」の裏で、一人の美しい女性が命を落としました。
華やかな銀座や赤坂の高級クラブで、最高級の真珠やアンティークジュエリーを身にまとった一流政財界人たちを相手にしていた金勢さき子さん(周防咲子)。
彼女が選んだ、あまりにも切なく激しい「愛と利権」の真実、そして現代の女性たちにも警鐘を鳴らす「孤独とメンタルケア」**の重要性について迫ります。
金勢さき子の生い立ちと生涯
生年月日:1934年1月20日
死去:1959年10月30日(25歳没)ジャカルタ インドネシア メンテン
本籍:石川県金沢市
出身地:東京世田谷区等々力
出身校:東京都立目黒高校
親戚:長谷長治(叔父)
金勢さき子さんは1952年に都立目黒高校を卒業するとモデル養成所に通っていました。
竹映画募集した「ミス明眸」及び「ミス・ジャズ」コンテストでともに2位に入賞。
その後渋谷の喫茶店ジャズ・コーナーに勤務されています。
1955年7月に一流モデルクラブとされる「すみれモデルクラブ」に加入。
創生期の代表的なモデルさんとしてはTFMC(東京ファッションモデルクラブ)に残ったヘレン・ヒギンス(初のハーフモデル、満州生まれ母がロシア系)さんと岩間敬子さん、毎日ファッションガール→TFMC→FMG(ファッションモデルグループ)ではミスユニバースに3位入賞し八頭身ブームを起こした伊東絹子さん、その他、相島政子さん、香山佳子さん、森貝光子さん出典:ライブドア
ファションモデルの仕事の傍ら銀座のナイトクラブ・クラウンや交詢社シローに勤務。
2年後の秋に赤坂のキャバレー「紅馬車」に移籍しています。
黎明期のファッションモデルとして、また銀座の「クラウン」や「交詢社シロー」といった超一流の社交場で活動していたさき子さん。
当時、これらの場所は日本のトップビジネスマンや外資系企業のVIPが集まる、まさにハイエンドな国際ロビー活動の場でした。
彼女はその卓越した美貌で、高級毛皮や時計、宝飾品を取り扱う目の肥えた富裕層たちから一目置かれる存在だったのです。
スカルノ大統領との接点は

スカルノ大統領と金勢さき子の画像
1957年10月には、岸信介首相とスカルノ大統領の間で、日本国政府がインドネシアに戦後賠償金として803億円を供与することが決まりました。
これは、ひも付き賠償金と呼ばれ、現金での供与ではなく、実質的に物資での供与になります。 インドネシアはその803億円で日本から物資を購入することになりました。
金勢さき子(周防咲子)
ここに目を付けたの中核商社の木下商店((1965年に三井物産に吸収)
中核商社の木下商店
スカルノ大統領と金勢さき子の知り会った接点は1958年(昭和33年)2月、友人に誘われて訪れた京都で来日中のスカルノ大統領と偶然を装って引き合わせたています。
これは政府与党関係者の差配だったとされています。ある情報ではさき子には2千万円が渡され、因果を含めてスカルノのとへ送り込まれたとされています。
上記に挙げた赤坂のキャバレー、「紅馬車」、銀座ナイトクラブ、交詢社シローなど木下商店が利用していたことから、金勢さき子さんの繋がりが見えてきます。
1958年昭和33年11月、金勢さき子は木下商店のジャカルタ支店長の豊島中の娘の家庭教師の名目でパスポート取り初入国。
現地ではインドネシア倍賞使節団を務めたバスキの妻であり、バスキ夫人と呼ばれています。
1959年昭和34年4月14日、スカルノ大統領の訪日に先立って一時帰国。
6月6日に来日したスカルノが帝国ホテルにさき子の両親を招待して結婚を申し込んでいます。
1959年(昭和34年)7月3日、両親と別れたさき子はジャカルタに戻っています。
「ジャカルタに戻ったさき子は間もなくイスラム教に改宗して名前はサキコ・カナセ(インドネシア名 サリク・マエサロ)スカルノの第三夫人なりとなった」
とする記事や、銀座の第一ホテルで結婚式を挙げたという説もあるが真偽は不明。
根本七保子(デヴィ夫人)
赤坂に1958年にナイトクラブ「コパカバーナ」が誕生しました。ここで18歳の時に働いていたのが、デヴィ夫人(根本七保子)です。
その際立った美貌に目を付けたのが、中堅商社、東日貿易の久保正雄社長でした。
日本人女性好きのスカルノ大統領との太いパイプ構築のために、商社は、日本人女性を派遣しました。
500万円(現在の9000万円)と都心の一等地100坪を交換条件に、根本七保子(後のデヴィ夫人)をスカルノ大統領に対面させたのです。
スカルノ大統領は、大いに気に入り1959年根本はジャカルタに渡りました。
しばらく愛人生活を続けましたが、62年に正式にスカルノの第三夫人となり、日本国籍を除籍し、インドネシア国籍を取得して名を ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノに変えました。

スカルノ大統領とデヴィ夫人1958年(18歳)
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金勢さき子の自殺
スカルノ大統領はさき子に結婚を申し込んだ直後に上記に書いた通り久保社長が根本七保子(デヴィ夫人)を紹介しています。
スカルノは大いに気に入り根本七保子は1959年9月にジャカルタに渡ります。
さき子がジャカルタに帰った僅か2カ月後の事です。

[わが心、南溟に消ゆ 西木正明著(2000年)] 周防咲子(本名:金勢さき子)
神鷲商人の中で、周防咲子に関する記述は短いですと引用されています。根本と周防は一度も顔を合わせることはなかった。
まずは、スカルノ大統領が根本に、周防のことを説明するシーンです。
「彼女はあなたのように英語がうまくない。勘が鋭くなくて、意思があまり通じない。彼女の得意な言葉は、結婚だけだ」
スカルノは少し早口になって、いった。
「この4月、彼女は、私に先立って東京に里帰りしていた。私は、あなたの結婚の希望をかなえることはできないから、このまま東京に残って、ほかの人生を生きてください、と忠告したのだけれど、彼女は聞き入れなかった。私より少し遅れてジャカルタに戻ってきたんですよ」
次は周防さんのコメント
「あんたは当分東京に残っていなさい、なんていうから、私、怒ったの。趙さんの話じゃ、私を三番目の奥さんにする、そう大統領が約束したっていうから、こんな暑い国へきたのよ。それなのに、当分、東京に残れ、はないでしょう。私だって、今更みっともなくて実家に帰れやしないわ」
内容は激しいが、どこか間延びのした口調で、瀧子はいう。
「しかもあたしは、お舟九隻の持参金をね、おじさまたちの会社からいただいて、この汗疹の国へやってきたんですものねえ」
周防は、木下商会が、1958年第一次賠償の船9隻の契約を勝ち取るために無理やり送り込んだものの、スカルノ大統領からは、好かれていない、という状況でした。
「船9隻の持参金」というあまりにも生々しい言葉。当時の日本とインドネシアの間の賠償ビジネスは、現代の**「国際開発援助(ODA)」や「海外インフラ投資・船舶融資」に相当する、国家規模の巨額マネーが動く世界でした。
商社や黒幕たちの「利権・ロイヤリティ・資産形成」の思惑に巻き込まれ、単身で言葉の通じない南国へ渡ったさき子さん。彼女の悲劇は、現代で言う「海外駐在の孤独」や、極限状態でのメンタルヘルスケア**の欠如が引き起こしたとも言えます。
金勢さき子の自殺の真相

デヴィ夫人、スカルノ大統領最初の日本人妻と言われている。金勢さき子の画像
咲子は孤立感、嫉妬、そして恥辱を感じていた。特に、二人とも日本人女性であったため、自分とデウィを比較されることは避けられなかった。
自殺の前の様子も書かれています。
「(大統領は)以前は無理して時間を作ってくだすったのよ。最近は無理してくださらないのよね」
瀧子はひどく打ちしおれている感じであった。
「私からは連絡もできないし、大統領がいつどこで、何をしていらっしゃるのか、私にはつかめない。大統領に新しい恋人ができたんじゃないかしら」(中略)
瀧子の左手首には、真新しい包帯が腕時計のように巻かれている。
「瀧子さん、その手首はどうしたんだ」
瀧子は手首の包帯をじっと眺め、ややあって、どこかなげやりに、
「なんでもないの。庭で虫に刺されたのよ」と答えた。
この最初の時は一命を取り止めていますが。
そして同月30日に寄留していた政府軍将校の邸宅で、再び睡眠薬を飲むと湯を張り両手首を切った。ある将校の妻が発見し、セント・カルロス病院へ運び込まれたが、命を閉じてしまったのです。1959年、25歳没。

プタンブラン日本人納骨堂プタンブラン墓地 金勢さき子(25歳没)
遺体は「Saliku Maesaroh」というインドネシア名でクバヨランの墓地に埋葬されたとされている
まとめ
デヴィ夫人の陰に隠れスカルノ大統領に舐められ最初の日本人妻でありながら表面に出られなかった金勢さき子さん。
商社の賠償ビジネスと女好きのスカルノに目をつけ女性を絡んで何カ月か違いで二人の女性が紹介されてインドネシアに渡りました。
さき子はスカルノと純粋に結婚できると信じて思っていたのでしょう。そこに絶世の美女根本七保子が現れて、スカルノは夢中になってしまい。
大統領がさき子にさく時間が少なくなり、愛情、嫉妬、精神的に追い詰められていき25歳の若さで人生の幕を閉じてしまったのです。
絶世の美女・根本七保子(デヴィ夫人)という「時代の寵児」の登場によって、時代の波に飲み込まれてしまった金勢さき子さん。
彼女の悲劇から私たちが学ぶべきは、どんなに華やかな世界や資産・地位があっても、**「自分自身の心と体の健康(セルフケア)」**を守ることが最も大切であるという事実です。
ジャカルタの静かな墓地に眠る彼女の魂の安らぎを願うとともに、私たちはこの歴史の真実から、本当の心の豊かさとは何かを問い直す必要があるのかもしれません。
最後までご覧くださりありがとうございました。
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