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松坂慶子さんと言えば言わずと知れた日本でも指折りの美人大女優です。
少女時代の松坂慶子さんは1967年(14歳)の時に「忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ」でデビユーします。
その女優が松坂慶子でした。その彼女が天下の美人大女優になるとは思いもしなかったと言います。
私自身を「ウルトラセブン」はよく見ていた記憶があります。その時は出演者の名前も知りませんし、松坂慶子さんが出ているとは分かりませんでした。
その松坂慶子は実は韓国人だったのです。両親は壮絶な苦しい過去を乗り越えてきたのです。
そんな松坂慶子さんの生い立ちと両親のルーツを紹介します。
- 松坂慶子の本名の由来
- 松坂慶子の両親の壮絶な過去が凄すぎる
- 松坂慶子は韓国人?ハーフ説を考察してみた
- 松坂慶子の(夫)ギターリスト高内晴彦さんとの両親の確執
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松坂慶子の本名の由来
松坂慶子の生い立ち
松坂慶子さんは、1952年7月20日生まれ
東京都大田区出身です。
身長は162cm
血液型:A型です。
松坂慶子さんの本名は韓慶子です。(結婚後は高内慶子)になります。
お父さんは韓国人で、名前は韓英明といい朝鮮半島の慶尚道(キョンサンどう)出身なので故郷を忘れないために「慶」の文字取り、「慶子」と名付けられたといいます。
お父さんは、自分の生まれた故郷の一文字を娘の慶子名前に残したことは、やはり自分の生まれ育ったところは忘れられい気持ちはわかります。
松坂慶子は早産で生まれて未熟児だったといいます。7歳年下の弟もいり4人家族です。
両親は「イングリッド・バーグマン」みたいに綺麗な子になってほしい気持ちから、歌唱科、ピアノ科、児童舞踊科などいくつもの習い事をさせていたと言う
習い事の費用捻出の為食事の回数も減らすこともあったという。だから慶子さんには相当に期待掛けていたかもしれません。
しかし、当時時代に「イングリッド・バーグマン」を知っていたとは驚きです。
私自身、昔ヨーロッパ旅行に行ったことを思いだしましたので、記事にしてみました。
一人の少女が、戦争に巻き込まれて、15歳で亡くなくなる前までに日記書いていました。そして生き延びた父が娘の思いを知り本にしました。それが有名の「アンネの日記」です。
著者もアンネの住んでいた部屋に入ってみました。扉位の本棚があってそこをどかせばアンネたちが暮らしてる部屋はいれるのです。まさか本棚の裏に部屋の入口がるとは誰も思わないでしょう。密告者がいたのです。
「アンネの日記」は生き延びた父によって1947年に書籍化され世界70に翻訳され出版され発売されています。
本当に悲しい出来事で、今も戦争で、子供たちや女性がつらい目に遭っています。なんでこんなことが繰り返されるのか、本当に早く戦争がない世の中になって欲しいです。
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松坂慶子の両親の壮絶な過去が凄すぎる。
松坂慶子の父親は韓国人
松坂慶子さんのお父さんは、韓英明といいます。
1923年生まれ、朝鮮半島大邱(テグ)慶尚道(キョンサンどう)で1938年(昭和13年)の夏15歳の時小舟で日本に渡り、朝鮮人であることをふせ日本名「岡田茂」を名乗って職を転々としたいたと言う。
1936年から1945年まで日本が35年間統治していた時代第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べているまたこの頃、多くの朝鮮人が自らの意思でより良い職を求め内地へと向かい、その多くが「在日韓国・朝鮮人」として日本に定住している。
松坂慶子のお父さんはまさしくこの時代に日本に希望抱いてやってきたのです。凄い根性の持ちぬしです。
そしてたどり着いて、長崎の高島炭鉱員の募集の張り紙を見つけて応募しています。
「炭鉱募集員、8時間労働、日給4円」
で高島に渡ると20人ほどの日本人半端(はんぱ)に入っています。
※半端とは作業員の宿泊施設の事です。
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英明さんは高島炭鉱で強制労働させられる
英明さんは、炭鉱で8時間労働、日給4円という条件でしたが、親方から「10銭」「20銭」と書いた紙を貰っただけだったのです。
英明さんが、親方に書いた紙に10銭・20銭位で、1日働いて200円~400円はひど過ぎると思います。そんな所を逃げ出そうとするはずです。
昭和13年頃は1円が現在だと2000円だそうです。そうすると日給4円だと8000円になります。
労働からすると決して高いとは言えませんが、まともにもらえていれば良かったと思いますが、お金ではなくただの紙切れじゃ子供だましよりひど過ぎます。
そこは、けがをしても、治りきらないうちに仕事をさせられる、監獄のような現場で、英明さんは黙って黙々と仕事をしていたといいます。
自分が韓国人だという事がばれないようにしていたのが、高揚したのか、だんだん仕事ぶりが認められて、島を自由に散策できるようになっていた。
英明さんは玄界灘を泳いで脱出した
英明さんはある日、散歩中海岸に打ち上げられている丸太を発見した、無我夢中で丸太にめがけて走りさすと、他に二人丸太を目掛けて走っている男がいた。
三人は丸谷捕まって玄界灘の海に泳ぎだした。泳ぐことを休めば海に沈んでしまう、必死に泳いだという。4.5キロぐらい泳いだところで、ようやく、対岸の岩場が野母半島に打ち上げられたのです。
1939年から朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられます。1943年からは、中国人捕虜の強制労働が開始されました。過酷な労働に耐えかねて「島抜け」をし、海を泳いで対岸の野母半島を目指しながら亡くなってしまった人々の慰霊碑も軍艦島が見える野母半島に残されています。
英明さんの勇気ある行動は凄いと思います。本当に敬意を表します。
炭鉱島から脱出した英明さん達三人は、パンツ一枚の恰好だったと言いいます。昼間は隠れていて夜に香焼町から長崎市内を目指して歩いたら途中「東京音頭」が聞こえてきてくる所に一軒の料亭があり、「残り物の何か食べ物を貰えないかと恐る恐る」扉を開いたら若い芸者さんと目が合い、その芸者さんは三人の姿を見ると察したようにおにぎりを作ってくれたという。
英明さんは、そのおにぎりを頬張りながら涙を流したと言います。
英明さんは17歳の時。
あの時の感謝の気持ちは一生忘れない。
と後に語っています。
正にはだか一貫とはこのことだと思います。生きるか死ぬかの排水に陣を引いてきた英明さんには本当に尊敬します。
英明さんの脱走に成功したのはまさに奇跡的だと言わざるしか言えません。
母親も幼少期に身売られていた
父親の英明さんは炭鉱島から命がけながら逃亡に成功し、長崎県香焼町から福岡県の筑豊炭鉱を転々としながら職をから、戦後の混乱期に仙台で妻になる「つね子」さんと出会っています。
つね子さんは青森県出身で幼少期に貧しさから身売られた過去があり、身寄りのない二人は境遇が一緒であり、同棲を始めたそうです。
そんな中で、二人袋物の行商をリヤカーで始めその後複数の事業始め成功をおさめます。それから兵庫県愛媛市に引っ越し、さらに神奈川県に移り、そして東京へと移り住み、松坂慶子さんが生まれたといいます。
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松坂慶子は韓国人?ハーフ説を考察してみた
松坂慶子は12歳まで韓国人籍だった、そしてハーフでもあった
神奈川県藤沢市に転移した時に「清水」という姓を譲りうけた。
お母さんのつね子さんも身売りされて戸籍がなく「清水」という姓で戸籍を作ったそうですけど、その戸籍はすでに亡くなっている韓国人の戸籍を借りたものだから、お母さんは日本人であるはずなのに、韓国籍になってしまったそうです。
お父さんに英明さんは韓国人でありながら、日本姓を名乗っていたけれど韓国籍のままだったから、当然松坂慶子さんも韓国籍だったのです。
ゆえに、清水英明とつね子の両親から生まれたので清水慶子になります。
在日韓国人父親と日本人でありながら戸籍がない母親の間に生まれ韓国籍のまま育った松坂慶子さんですが、ある日英明さんに某大手新聞記者から「あなたの旧姓や過去を知っていますよ」との手紙を受け取ったという。「(ハッハッハッ)と笑い声まで書いてあったと言います。
こんな手紙を貰ったらこわいですね。お父さんの心配する気持ちは分かります。
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父親の英明さんが、帰化を取得して日本国籍に
英明さんは自分の戸籍を勝手に調べられて恐ろしく感じたり、悔し思いもあり何より娘の将来を思うと心配になり帰化をすることを決心したといいます。
知人の力を借りて法務省に交渉すると、1964年それまで(幼少期に身売りされて)戸籍が無かった、妻・つね子(松坂さん母親)の戸籍が回復した。
そして、慶子さんをつね子さんの非摘出子(法律上の婚姻関係ない男女の間に生まれた子供のこと)としてつね子さんの戸籍に入れたことで松坂慶子さんは日本国籍になられたのです。
その後、英明さんとつね子さんはようやく入籍できたそうです。そのことは、1993年に、ご両親が出版された、著書・「松坂慶子への遺言」で公表しています。
1993年に英明さんは「松坂慶子への遺言」を主版した年に、胃を削除する手術をされています。
その思いから、死ぬ前にもう一度九州に行きたい。すべての出発点である炭鉱や筑豊にお母さんを連れて行ってやりたい。
強制労働された炭鉱や筑豊を母さんに見せてやりたい思いから「女性自身」の記者を伴い三人で訪れたといいます。
訪れてみると炭鉱や筑豊の風景がすっかり変わっていて当時の面影はありませんでした。
それでも、高島炭鉱から脱出した経路だけでも探ろうと船で玄界灘を渡り島に行き帰り船の舳先で九州本土を眺めていると、だんだん岸辺に近ずいてくると、岩の形、断崖の高さ、崖の木々など当時の面影が蘇ってきて、死物狂いで泳いで這い上がった岸辺を見た時、涙がにじんで見えてきて・・・
ここだ!母さん、ここなんだよ!ここに泳ぎついたんだよ!
と夢中で叫ぶと
それを聞いた、
つね子さんは、お父さんここなんですね・・・ここなんですね・・・
と同情して、何度もうなずいていたそうです。
英明さんの生きざまをみて、本当に感動して胸にしみました。自分だったら出来ただろうかと思いました。今こうして生きていける幸せに感謝しかないと思います。
結論として
松坂慶子さんは幼少期は韓国籍で韓国人でした。そして、12歳の時に日本国籍になっています。
今までは、清水慶子でしたが、母親の性(松坂)が1964年に回復して松坂慶子になりました。したがって、日本人になりましたが、ハーフでもあります。
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松坂慶子の(夫)ギターリストの高内晴彦さんと両親の確執
松坂慶子さんと両親との確執は
松坂慶子さんには過去に略奪愛で女性週刊誌に書きたてられて父親の英明さんに激怒されたことがあります。
テレビドラマ「阿蘇の女」で共演したことで小坂一也さんは、松坂さんに一目惚れで一方的に好きになってしまったと言います。
小阪さんには長年連れ添った女優の十朱幸代さんがいたのです。それも結婚して10カ月目で、乗り換えたのですから、松坂さんの事を略奪愛と週刊誌が書きたのです。
そして松坂さんと小坂さんは結婚を前提で都内のマンションで同棲を始めたのですが、お父さんからの凄いけんまくで1年で解消になったのです。
一人娘の松坂は一家の大黒柱。
お父さんの英明さんは、韓国から、小舟で日本に来てさらに過酷な労働と生死にかを潜り抜けてきて家庭を持ち。
そして、早くから娘に芸能ごとを習わせ、そのためには食事も減らして立派な女優にまで育てきて生活も安定してきた中での娘の行動にには我慢できなかったと思われます。
「家庭を壊したかもしれないが、慶子だって傷ついている。結婚しても不幸は目に見えている」と怒りをあらわにしている。そして娘を前に「付き合いをやめるか、親子との縁を切って結婚するか。どちらもできないなら死ね!」
と鬼気迫って言い放った。
この時は、さすがに慶子さんは、お父さんにゆう通り素直に引き下がり、小坂一也さんと別れています。
その後は、深作欣二監督と長い間不倫関係と噂がありましたが、決定的は写真は撮られませでした。
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ジャズギターリスト高内晴彦と結婚
松坂慶子は1991年38歳の時ギターリスト高内晴彦と結婚しています。
[プロフィール]
名前 :高内春彦
生年月日:1954年8月5日
生まれ :栃木県 宇都宮市
国籍 :日本
職業 :ジャズギターリスト
6歳からピアノを習い中学時代にはジャズの魅力に取りつかれ、15歳からギターを始めたそうです。
大学は東京造形大学美術科に進学し油絵/版画を専攻。大学時代にはジャズ研で活動し18歳から2年間、著名なギターリスト渡辺香津美氏に師事しました。
1980年の渡米して、ニューヨークで井上信平と「HIKO BAND]を結成。
このように高内さんはかなりの実力者と分かります。
次回作の役作りのためウォール街を案内してもらった時急に頼もしく見えて結婚を意識しました。一緒にいるとゆったりとした気分になれるんです。
出典:松竹芸能
松坂慶子さんの父親は結婚に大反対
この結婚に際して、予想外の結婚相手にメディアは大変驚き「美女と野獣」「究極の格差婚」と揶揄されています。
トップ女優の松坂さんに対して、高内晴彦さんは、音楽業界でも無名の存在でした。
ちょっと音楽家には見えないひげをはやし小太りの男性です。
松坂慶子さんと高内晴彦さんは両親に知らせる前に結婚されています。メディアに騒がれていたこの結婚に対して、
父親の英明さんも呼応して大激怒して罵倒し付けていました。
ギターリストなんか知らんが、収入もないのに毎日亭主ずらして、ゴロゴロしているだけ
慶子に寄生してのうのうと生きている、結婚当初は、一日500万円も稼ぐとかもうすぐ原宿にマンションが手に入るとかと言っていたが、全部嘘。
あの男は、娘を利用しているだけ。
とマスコミに対して高内さんを罵倒し続けたのでした。
(お父さんは、激怒して、実家の表礼から「慶子」の名をドリルで削り取ったとか)
その一方で松坂さんは、そんなお父さんに対して、しばらくは結婚を認めてもらおうと説得を試みますが、お父さんからは相変わらず態度で。
あんなヒモみたいな男をかばう娘も許せん。
と言われています。
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両親に絶縁して、ニューヨーク暮らしへ
いつまでも、夫を悪く言う両親を許せず、無視するようになり、ついに1992年に、絶縁宣言をしたのです。
その後松坂さんは、両親から逃げるように高内さんの拠点である、アメリカニューヨークに移住し、以降7年間ニューヨークに暮らしています。その間に二人の娘を出産されています。
後に松坂さんのこのようなコメントを述べています。
父親が夫・高内晴彦さんと和解しないまま他界
結婚後、両親から別れてニューヨークで暮らしていましたが、9.11の事件を境に日本に帰国していますが。
2006年には父親の英明さんが糖尿病を患い寝たきりの生活になっています。
その間慶子さんは介護をされてお父さんとは仲直りできたようですが、夫の晴彦さんとは、和解しないまま2007年にお父さんは享年85歳で他界されました。
お父さんは二人の孫と一度も会わなかったと言います。
お父さんとしてはどうしても許せなかったんでしょうね。それだけ自分の築き上げてきた人生を崩されたくなかったと思います。
ジャズギターリスト・高内春彦さんとの結婚を両親に猛反対され、長きに渡り、両親と絶縁関係にあった、松坂慶子(まつざか けいこ)さんですが、2013年、夫婦で実家に移り住み、お母さんの介護をしていることが、週刊誌「女性セブン」(4月25日号)によって報じられています。
2007年にお父さんが他界した後、お母さんは、そのまま(都心から離れた住宅街にある3階建ての一軒家)で一人暮らしをしていたそうですが、
2012年の秋頃、松坂さん・高内さん夫婦が引っ越して来たそうで、表札には、お父さんの名前の隣に「TAKAUCHI」と刻まれた表札が掲げられたそうです。
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夫の晴彦さんが、義母の介護を手伝う。
そんな中、長年杖をついていたお母さんが、とうとう車椅子生活になってしまい2012年に要介護3の認定を受けたことから、最初は松坂さんが一人で介護を担ってきていましたが夫の晴彦さも手伝うようになり夫婦で、お母さんの介護するようになり松坂さんの仕事に行けるように配慮するようになったといいます。
松坂さんの知人も夫の晴彦さんの評判が良いといわれてた。
松坂さんの場合、子供の手が離れた矢先で、さあこれから夫婦の人生が始まるという時でした。
しかも彼女とお母さんの間には長く深い確執もありますよね。それを乗り越えて介護同居という選択をしたわけです。
ご主人も賛成してくれたし、お母さんのほうも松坂さんの申し出を受け入れて、昨年秋ぐらいから一緒に暮らし始めることになったそうです。
それにしてもご主人はご立派というか・・・あんなに嫌われて、公の場で猛批判されて、それでも妻の願いとあれば叶えてあげる。ある意味、夫の鑑ですよね
2018年には、夫の高内春彦さんが松坂さんのお母さんを献身的に介助していることが報じられた、松坂慶子さんですが、2021年4月には、同居介護9年の末、お母さんが亡くなったことが報じられています。
松慶子さんはお母さんの晩年に親孝行出来て良かったと思いますます。
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まとめ
松阪慶子さんは、12歳までは韓国籍韓国人でした。名前も当時は清水慶子でした。そしてお父さんが帰化の申請されてお母さんの松坂姓に入り松坂慶子になりました。
お父さんとお母さんの過去も本当に凄いと思いました。今の時代には考えられません。
一部ではいまだに戦争が起きていますが、早く収束してほしいものです。
慶子さんの夫も高内さんの確執は、ヒホも状態の男は許せんと激怒しています。
お父さ自分の人生を振りかって見ればそう思えるのも無理はありません。けど娘は高内さんを選んでしまったのです。高内さんとは仲たがいしなまま亡くなられたのが寂しいと思います。
慶子さんと夫の高内さんと二人でお母さんの介護をされて、お母さんは高内さんと認めてようです。最後は親孝行出来て本当によかってと思います。
テレビドラマ「らんまん」祖母役を演じる松坂慶子さん、自身の100歳往生した母つね子さんのと役が重なり目頭が圧なりながら、母の最期の姿と重なり自然と演技できたという。
松坂慶子さんにはこれからも健康で活躍されることを願っています。
最後までご覧くださりありがとうございました。
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