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- 黒柳徹子の若い頃のケタ外れ伝説エピソード16選
- 伝説エピソード①本当は徹子(てつこ)ではなく「徹(とおる)」という名前になる予定だった
- 伝説エピソード②両親の経歴と親族が凄い!
- 伝説エピソード③小学1年生なのに問題児すぎて退学させられていた
- 伝説エピソード④音楽学校を卒業後オペラ歌手を目指していたが挫折した
- 伝説エピソード⑤6000人の応募者から6次審査を勝ち上がり13人の劇団員の一人に選ばれていた
- 伝説エピソード⑥日本のテレビ初放送からテレビに出ていて1953年テレビ女優の第1号としてデビューしていた
- 伝説エピソード⑦NHKラジオドラマ史上初の大人女性で初めて子供役の声を演じた
- 伝説エピソード⑧NHKがカラー放送を始めるとき顔の右半分を濃い紫色に左半分は白色に塗られ半日黙って座らされ撮影された
- 伝説エピソード⑨NHK紅白歌合戦に25歳という当時最年少で司会に抜擢されていた
- 伝説エピソード⑩平均睡眠時間3時間で過労になり1カ月入院!すべての番組を降板していた!
- 伝説エピソード⑪トーク番組「徹子の部屋」で同一司会によるトーク番組として最多世界記録を保持している!
- 伝説エピソード⑫著書「窓ぎわのトットちゃん」の販売部数が800万部を記録!さらに更新中!
- 伝説エピソード⑬フランス人ピアニスト恋人と遠距離恋愛を40年間続けいていた!
- 伝説エピソード⑭若い頃は年収が10憶円超だった!
- 伝説エピソード⑮西麻布に豪邸を購入!86歳のときに売却してタワマンションに引っ越していた!
- 伝説エピソード⑯若い頃から築き上げた交友関係がすごい!
- 黒柳徹子のアメリカ・ニューヨーク留学時代
- 黒柳徹子の若い頃画像年表
- 黒柳徹子・プロフィール
黒柳徹子の若い頃のケタ外れ伝説エピソード16選

黒柳徹子の画像①1933年8月9日、2023年(90歳)
黒柳徹子さんは日本で知らない人はいない位有名です。今年で御年90歳です。
黒柳徹子さんは日本でテレビ放送が開始した初日1953年2月1日からテレビに出ています。
そして日本史上最初のテレビ女優でもあります。
「徹子の部屋」では同一司会者によるトーク番組では最多放送世界記録保持者として記録更新中です。
著書「窓ぎわのトットちゃん」は世界35カ国で翻訳され、国内外の発行部数は2500万部を超えています。
昭和59年からユニセフ親善大使としてアジアから初めて任命されて活動しています。
何もかもけた外れの黒柳徹子さんです。
こんな人は二度と出てこないと思わせる凄い人です。
そこで、今回はけた外れ伝説のエピソード16選を紹介します。
日本のテレビ放送初日から第一線で輝き続け、同一司会者による最多放送のギネス世界記録を更新し続ける人間国宝級のスター、黒柳徹子さん。
著書『窓ぎわのトットちゃん』の**「莫大な印税・著作権(知的財産)」**をすべて社会に還元するその高潔な生き方は、日本中から尊敬を集めています。
今回は、若い頃のはちきれんばかりの美貌と「別格の透明感」を誇る73枚の秘蔵画像とともに、彼女のケタ外れな伝説を徹底検証。
さらに、**名門トモエ学園での「最先端の知育教育」や、西麻布の22億円豪邸売却から見えてくる「大人のスマートな終活・資産整理」**の全貌に迫ります。
- 本当は徹子(てつこ)ではなく「徹(とおる)」という名前になる予定だった
- 両親の経歴が凄い!
- 小学1年生なのに問題児すぎて退学させられていた
- 音楽学校を卒業後オペラ歌手を目指していたが挫折した
- 6000人の応募者の中から6次審査を勝ち上がり13人の劇団員の一人に選ばれていた
- 日本のテレビ初放送からテレビに出ていて1953年テレビ女優第1号としてデビューしていた
- NHKラジオドラマ史上初の大人女性で初めて子供役の声を演じた
- NHKがカラー放送を始めるとき顔の右半分を濃い紫いろに左半分白色に塗られ半日黙って座らされ撮影された
- NHK紅白歌合戦に25歳という当時最年少で司会に抜擢された
- 平均睡眠時間3時間で過労になり1カ月入院!すべての番組を登板していた!
- トーク番組「徹子の部屋」で同一司会によるトーク番組として最多世界記録を保持している!
- 著書「窓ぎわのトットちゃん」の販売部数が国内で800万部を記録!さらに更新中!
- フランス人ピアニスト恋人と遠距離恋愛40年間つづけていた
- 若い頃は年収が10億円超だった!
- 西麻布に豪邸購入!86歳の時に売却してタワーマンションに引っ越していた
- 若い頃から築き上げた交友関係がすごい!
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伝説エピソード①本当は徹子(てつこ)ではなく「徹(とおる)」という名前になる予定だった
黒柳徹子名前の由来は
ご両親や友達の人達が生まれてくる時にみんなが男の子に違いないと言っていたのを信
じこんで、お父(守綱)さんは「徹(とおる)」という名前を考えていたといいます。
実際に生まれたのは女児だったけど、守綱さんは「徹(とおる)」という名前を捨てき
れずに、やむを得ず「子」を付けて「徹子」としたと言います。
よほど、お父さんは「徹(とおる)」と言う名前が好きだったんですね。

黒柳 守綱(くろやなぎ もりつな、1908年6月20日 – 1983年4月30日)は、日本のヴァイオリン奏者。(74歳没)妻は黒柳朝、
黒柳徹子さんのお父さんは博識家ですね。女の子だったけど、徹子さんの人生が名前の
通りに歩まれていることは本当にすごいです。守綱さんは本当に(徹子)と名ずけて良
かったと喜んでいると思います。
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伝説エピソード②両親の経歴と親族が凄い!
黒柳徹子さんのご両親

黒柳守綱ブァイオリン奏者1908年~1980年(74歳没)黒柳朝執筆家1910年~2006年(95歳没)
(父)黒柳守綱(旧姓:田口)ブァイオリン奏者(1908年~1980年)(74歳没)
東京音楽学校卒業
東京都出身
徹子さんのお父さんは音楽家で新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターを務めていた、バァイオリストの黒柳守綱です。
黒柳守綱は中国に出兵されて終戦後ソ連の捕虜としてシベリアに連行されて重労働させられていました。
黒柳守綱さんが、バァイオリストと分かると日本人収容所を回る慰問団を結成させられ
楽団員として日本軍捕虜収容所の巡回・慰問に当たっています。
シベリヤに捕虜として抑留されている方々にバァイオリスト演奏でいやされたことは沢
山の人が感謝したと思います。
黒柳守綱さんは本当に素晴らしいことをされたと思います。
音楽の力と言うものは凄いと思いました。ソ連軍も認めて捕虜の人に音楽で癒すように
させたのは、守綱さんのバァイオリができる功績が大きかったとだと考察します。
(母)黒柳朝(旧姓:門山)随筆家(1910年~2006年)(95歳没)
東京音楽学校声楽科卒業
北海道空知郡滝川町(現:滝川市)

黒柳徹子画像③とお母さん執筆家の黒柳朝さん
母親はエッセイストの黒柳朝さんです。
音楽教師の勧めにより、1927年に上京し東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科入学しています。
在学中にベートーヴェンの『第九交響曲』の演奏会を共にして知り合った新交響楽団
(NHK交響楽団の前身)の首席ヴァイオリン奏者・黒柳守綱と結婚しています。
まだ結婚前の23歳か24歳頃で守綱さんは首席のバァイオリン奏者でいたとは本当に凄い方だと思います。

黒柳徹子の若い頃画像④幼少期と父、黒柳守綱1908年~1980年(74歳没)母、朝さん1910年~2006年(95歳没)
黒柳朝さんは70歳を過ぎても執筆活発に活動し、自伝「チョッちゃんが行くわよ」
82年はベストセラーとなり、87年にNHK連続テレビ小説「チョッちゃん」としてドラマ化されています。

黒柳朝、黒柳徹子さんの母「チョちゃん」の作者1910年~2006年(95歳没)とチョちゃん役の古村比呂1965年生まれ
NHKドラマ「チョちゃん」役の古村比呂(21歳)さんを励ましに訪れた原作者の黒柳朝
(76歳)さんお二人とも北海道出身で息があったと言っています。
出身地である北海道滝川市の市花「コスモス」は、彼女の提言によって制定されたといいます。
それにしても、ご両親は二人とも才能が溢れていたのだと思います。
70歳過ぎてからの活動ですから本当に凄いと思います。これから高齢者も朝さんを見習っていきたいですね。
私も朝さんを見習っていきたいです。実は私の母も2026年現在100歳で元気ですから、母も尊敬しています。
黒柳徹子さんの親族も凄い
弟(長男)明児は(9歳)で亡くなっています。敗血症だそうです。

黒柳徹子の若い時の画像⑤弟、長男明児君と黒柳徹子、明児君は(9歳)で夭逝されました。
明児君はわずか(9歳)という若さで夭逝されました。お悔やみ申し上げます。
ご両親はさぞかし悲しまれたと思います。
(弟)黒柳紀明:ブァイオリン奏者(1940年生まれ)
桐朋学園芸術短期大学中退

黒柳 紀明(くろやなぎ のりあき、1940年 – )は、日本のヴァイオリン奏者。 ヴァイオリニストの小林武史に師事し、ヴィオラも演奏する。)
(妹)黒柳真理:元バレリーナ、エッセイスト、美容師(1944年生まれ)
6歳からクラッシックバレエを学び、ショイ・レニングラードのバレエ団と各地を公演。その後、足首の悪性ねんざの為バレエを断念。
(元夫)プロ野球選手井石礼司

黒柳 眞理(くろやなぎ まり、1944年4月19日 – )は、日本の元バレリーナ、エッセイスト、美容師。 北海道住在
弟(三男)貴之さんは徹子さんより24歳年下です。98年に覚せい剤で逮捕歴があったとのことです。その後はわかりません。
(叔父)田口修治:撮影技師、映画監督。映画プロデューサー(1905年~1956年51歳没)

田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年 – 1956年3月)は、日本の撮影技師、映画監督、映画プロデューサーである。
(伯父)には松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村氏もいます。
以上見てきた通り、家族親族の方々は芸術の方面で活躍されて優れている人多いと思いました。
NHK交響楽団の前身である新交響楽団の首席ヴァイオリニストだった父・守綱氏と、声楽家だった母・朝さん。
芸術のトップオブトップであるプロフェッショナルな家庭環境で、幼少期から本物の音楽や教養に触れて育った徹子さん。
妹の眞理さんもバレリーナやエッセイストとして活躍されていますが、こうした**「マルチリンガル(語学)教育」や「情操教育」に一切の妥協をしないエリートファミリーのライフスタイルは、現代のハイクラスな子育て世代・お受験ママ**にとっても、まさに究極の理想形と言えるでしょう。
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伝説エピソード③小学1年生なのに問題児すぎて退学させられていた
黒柳徹子さんは尋常小学校1年生の時に問題児過ぎて退学させられる。
自身の著書「窓ぎわのトットちゃん」の中で話されています。

黒柳徹子の自伝1981年講談社から発売国内販売部数800万部、世界35カ国で翻訳され、販売部数2500万部以上販売されている。
でも母親の朝さんは徹子が退学させられたことは言わないで、違う学校に行きましょう。と言い徹子に退学させられたことは黙っていたと言います。
お母さんは何と素晴らしい人なんでしょうか。こういう人がお母さんだといい人間に育つと思います。
人生の師トモエ学園長小林宗作先生に出会い。
こうして、小学校を退学になってしまった黒柳さんですが、お母さんが、徹子さんに悟
られないように、徹子さんに合う学校を探してくれたそうで、その後、「トモエ学園」1年生に転校します。
徹子さんは、LD(学習障害児)と公表しています。そのことについては著書「小さいときから考えてきたこと」の「私ってLDだったの?」の項で触れられています

黒柳徹子若い頃の画像⑥可愛すぎる小学生時代
始めてトモエ学園小林先生に会った時に徹子さんは、前の学校の事、家族のことなど4時間も話したそうですが、小林先生は遮ることなく最後まで聞いてくれたそうです。

黒柳徹子の画像⑦はこんなに足が長くスタイルの良い子でした。
徹子さんの話を聞いて「先生から言われた言葉は君は本当はいい子なんだよ。」と声かけたそうです。
その後もみんなから疎外されたいたと感じていても、小林先生は徹子さんをいつも励まし続けていたと言います。
この小林先生のような方がもっと広く世の中に広まってほしいと願います。
黒柳さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」は小林先生に捧げた本だと言います。
この時黒柳徹子さんの人生の師にであったいえます。と言っても過言ではないと思います。
![黒柳徹子トモエ学園(トモエがくえん)は、かつて東京都目黒区自由ヶ丘(現在の自由が丘)に存在した私立幼稚園・小学校(旧制)リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られ、同学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』によって、一躍その名が全国に知れ渡った[1]。](https://hiroyukim.com/wp-content/uploads/2023/11/IMG_0064_1024x708_color-300x207-1.png)
トモエ学園(トモエがくえん)は、かつて東京都目黒区自由ヶ丘(現在の自由が丘)に存在した私立幼稚園・小学校(旧制) リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られ、同学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』によって、一躍その名が全国に知れ渡った

黒柳徹子の若い頃の画像⑧トモエ学園幼少期

小林 宗作(こばやし そうさく、1893年6月15日 – 1963年2月8日)は日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。 本名:金子 宗作(旧姓:小林)。
小林宗作先生は群馬県出身です。
そして群馬県下仁田町で小学校の先生をしていたと言います。私の故郷であります。
黒柳徹子さんの記事を書いて、こんな凄い人がいたとは感無量です。
黒柳徹子さんも今あるのは先生のお陰だと延ばられています。本当にこんな先生がいたとは驚きです。
黒柳さんが本に書いた「窓ぎわのトットちゃん」により「トモエ学園」認知され小林先
生の存在を知りました。本当に立派な方だと思いました。
そして先生も草葉の陰できっと黒柳徹子さんの業績をたたえて喜んでいると思います。
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伝説エピソード④音楽学校を卒業後オペラ歌手を目指していたが挫折した
黒柳徹子さんはなぜオペラを諦めたか。

黒柳徹子の若い頃画像⑨30代
黒柳徹子さんは映画「オスカ」を見てオペラの歌手になりたいと思って、人に来たら、
音楽学校にいけば習えると言われたと言う。
そこで、母親も出ていて自宅から通える東洋音楽に進んだのです。
先生はソプラノに近いアルトの歌い方で徹子さんはコロラトゥーラの歌う歌手になりた
かったけど、その先生を探したが、見つからなかったと言います。
見つかっていたらその道にいったかもしりませんと言っています。
ちょうどその時に人形劇を見て、その人形劇が素晴らしかったので、自分の子供にもこ
んな人形劇を見せてあげたら喜ぶに違いないと思って、人形劇を教えてくれるところは
ないかと探していた。

新聞を見たら、テレビが始まるのでNHKで俳優を募集しているのを知り素人でも1年間養成してくれるいう。ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれないと応募したんです。
一日だけの記事だったのです。
徹子さんの人生は、偶然の連続のような気がします。それが、いいように転がるのがふしぎです。
黒柳さんは見事に幸運をつかんだと思いますが、そのように動けるのが黒柳さんの強みだと解釈します。

マリア・カラス1923年~1977年(54歳没)マリア・カラスは、ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。
黒柳徹子さんは、1年に1回演劇をやる時は、マリヤ・カラスさんの(修練と勇気あとはゴミ)を肝に銘じて、一切の妥協しないで臨むと言います。
黒柳徹子さんは憧れのマリア・カラスの日本公演を見て自分もこのようにやろうと決心したと言います。
黒柳さんの演劇に対する姿勢が伺えます。その強い信念があるから長く続いていると思います。
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伝説エピソード⑤6000人の応募者から6次審査を勝ち上がり13人の劇団員の一人に選ばれていた
6000人の応募者の中から黒柳徹子が合格できたわけ。
黒柳徹子の最初で最後の就職活動。
徹子さんは「子供に上手に絵本とか人形劇やるお母さんになろう」と気持ちで応募して
います。履歴書は、郵送してしまい、後日、大きな封筒が届いたきていました。
合格かと思って開けたら、「なんで、貴方は郵送したのか」と、履歴書は特参することになっているという。
それが締め切りまじか、もうやめようかと思ったが、NHKは父と言ったことがあるか
ら、場所は知っていたから、もっていった。結果は次の日に見に来るように言われた。
①1次審査は書類審査で合格しています。
次の日に行ったら合格していたのです。
②2次試験は早口試験とセリフの試験です。
赤巻紙、青巻紙、黄巻紙。徹子さんは、早口で言ったから審査員がどっと笑ったといいます。
早口は黒柳さんは得意だと思いますから合格は納得です。
③3次は、筆記試験です。
徹子さんは、朝NHKに行ったら誰もいないから、守衛さんみたいな人に、「あんた何で
ここに来たの、試験は明治大学の講堂だといわれた」。
もうダメと思い新橋の方へ歩いていたらふと財布に1000円札が入っているのを思い出し
て、タクシー運転手にこれで御茶ノ水明治大学に行けますかと、聞いたら行けると言われ、急いで駆けつけています。
黒柳徹子さんのNHKの応募の試験の様子がわかります。
これは、3次試験までの当時の様子を徹子さんの話術で面白く話されています。
この動画を見ていたらおかしくて爆笑してしまいました。審査員の人が笑ったのが分かります。漫才を見るよりも面白いです。
黒柳さんの人を引き付ける話し方、聞いていても飽きない、そして飾りのない魅力があると感じがします。
④4次審査はパントマイムです。
黒柳徹子さんは同じ受験者にパントマイムってどうやってやるんですかと尋ねたら、笑
われたと言っています。(受験者は、パントマイムも知らないのかと言うような顔をしていた。)
演技は、別れの手紙をもらって絶望の中で嘆く様子をやる事。
黒柳さんは、走って行ったら試験管の前で転がり股を開いたまんま、延々と泣く真似の
演技したら、試験官が爆笑したと言います。
ああこんな事やるのはやだな…と言うつつ合格したのです。
⑤5次審査は歌です。
黒柳徹子さんが、あのやーど、わがやーど、と歌い終わったら、審査員がガラスの向こ
うからぞろぞろ出てきてを開けて

君!音楽学校行ってるって書いてあるけどこれ本当、声楽科って本当。
黒柳さんはこれはダメだなーと思ったという。
それでも、合格したのです。
⑥6次審査は面接です。
いよいよ最終面接の時。いきなり試験官が、

きみ、黒柳って書いてあるけど、黒柳守綱さんと関係あるの、
と聞いてきたと言う。(こんな事言われるのが、ヤダから父は不明と書いたのに心でつぶやいて)
ちょっと考えて、しょうがないから

それは、父です
こんなみっともない事するなとか
この世界はだます人が多いとか
自分はNHKに入りたいけど、こんなことを話したらもう駄目だと思っていたと言います。
徹子さんの楽しい話術満載です。見てて飽きない話し方はさすがだと思います。それが
自然と出るから、何度見ても面白いです。
田川さんがなぜ、受かったと思いますか、ときかれて、やはり運だと言っています。
著者は、黒柳徹子さんは、人を引き付ける魅力があると考察します。それが合格に結びつかたと解釈しています。
黒柳徹子さんは、いつでもありのままの自分を見せている。これが一番の魅力だと思います。
「テレビという新しい世界には“無色透明”な人が1人くらいいてもいいだろう」と、当時NHK文芸部のプロデューサーだった大岡龍男氏は後日、合格理由を明かします。
このように大岡龍男氏は述べています。
けど、黒柳徹子さんの魅力が審査員の気持ちを動かしたと見るべきだと思います。
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伝説エピソード⑥日本のテレビ初放送からテレビに出ていて1953年テレビ女優の第1号としてデビューしていた

黒柳徹子の若い頃の画像⑩1953年(20歳)
黒柳徹子さんは1953年の2月1日のテレビ放送開始初日からテレビに出演されています。
1953年1月にNHK放送劇団の一員となり、テレビ放送女優の第一号としてデビューしています。

黒柳徹子の若い頃画像⑪1953年(20歳)
NHKのモーニングを着た人が今日からテレビ放送が始まりますと挨拶された場面にいたのです。
テレビの数が866台しかなく、1台で5人見たとしても4000人のための放送でした。
最初は通行人などのちょい役で出ていて現場を学んでいたそうです。

黒柳徹子の若い頃画像⑫1953年(20歳)
テレビの放送初めての日からテレビに出ているとは凄いです。ほとんどの家にテレビが
無い時代にテレビに出演されているとは、時代の最先端を走っていらしゃったんですね。
何しろ、大卒の初任給が、1万円ぐらいでテレビは25万円もしたそうで、今のお金で500
万円ぐらいしたそうですから、買えませんね。
正にテレビの歴史は黒柳徹子さんの歴史だと思いますし、そして今でも出演されている
とは本当に凄いとしか言えません。
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伝説エピソード⑦NHKラジオドラマ史上初の大人女性で初めて子供役の声を演じた
この年にNHKのラジオ番組で黒柳徹子さんは、「人形劇ヤン坊、ニン坊、トン坊」のトン坊役で主演をしています。
この人形劇は原作者の飯沢匡氏が発案したものです。

黒柳徹子の若い頃の画像⑬1954年(21歳)新村礼子1928年(26歳)横山道代1936年(18歳)里美京子1935年(19歳)
黒柳徹子さんは人形劇トン坊役で人気がでて一躍有名になったのです。
黒柳徹子さんは個性が強すぎるとか声が変だとか揶揄されて、番組を降板させられてきていました。
そこで今回、大人の女性でも子供の声が出せるはずだと考えて飯沢氏が初めてNHK でオーディションでトン坊役で徹子さんが選ばれたのです。
それに感激した、徹子さんは飯沢氏に

「言葉を直します、一所懸命勉強します」
など懇願します。
しかし、飯沢氏は、

「君の個性が必要なんです、直さないでください、そのままがいいんです、けして直してはいけませんよいいですね。」
と言ったと言います。
黒柳徹子さんにとってはそれは信じられない言葉だったのです。
自分の個性を認めてくれたのは飯沢匡氏だったのです。
そして、この時に思い出したのは、トモエ学園の小林先生の「君は本当はいい子なんだよ」といわれた言葉でした。
黒柳徹子さんは二人の恩師に出会えたことで強い心の支えになったといいます。。

飯沢 匡(いいざわ ただす、1909年7月23日 – 1994年10月9日)は、日本の劇作家、演出家、小説家。
生涯の師と呼べる飯沢匡に出会ったことが黒柳さんの人生の宝物だと思います。
その後も飯沢氏の作品に出演されていて、演劇でも指導されるようになり関係がつづき
ます。演技する時も相談したら、「元気でやって下さい」と言われたと言っています。
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伝説エピソード⑧NHKがカラー放送を始めるとき顔の右半分を濃い紫色に左半分は白色に塗られ半日黙って座らされ撮影された

黒柳徹子の若い頃画像⑮1953年(20歳)
カラーテレビのモデルに
1955年(昭和30年)ごろ、NHKの科学研究所でカラー放送の研究が始まったといわれます。
黒柳徹子さんは研究のためモデルにいく事になり、当時はカラー映画が日本にきていた
ので、「あんな風にする」のかなと期待していたがところが行ってみたら、右顔半分を
紫色に塗られ、もう半分は白色に塗られ、ジ~っとカメラの前にいるだけでした。
徹子さんは、メイクの人に私「ピンクがいいんですけど」と言ったら、今日は紫の日
ですと言われたといいます。
要するに、人の肌に色を塗ってどのように映るかを実験してたとのことです・
自分が、綺麗に映るのと夢をもっていったのに、縞馬みたいで、がっかりしたといいます。

顔に色を塗ってどう映るかを見たと言いますから、
今からは信じられないけど、最初はみんな手探りだったんですね。
当時の白黒からカラーテレビになって大変なのはスタジオ内が以上に熱く異常でしたといわれます。
生け花なども「水分蒸発する」のが分かるほど。据え置きの金属などは触れるやけどす
る」ほどになっていたといいます。
黒柳徹子さんの数々の実体験をしてきたお話を聞いているといかに大変さが分かりま
す。
やはり現場にいた人の話はその場の雰囲気が聞いていてもこちらに伝わってきますから、大変ありがたいです。
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伝説エピソード⑨NHK紅白歌合戦に25歳という当時最年少で司会に抜擢されていた
NHK紅白歌合戦最年少25歳で抜擢される。

黒柳徹子の若い頃の画像⑯1958年(25歳)NHK第9回紅白歌合戦で最年少司会者に抜擢
黒柳徹子さんは第9回NHK 紅白歌合戦は25歳最年少で司会をされています。
この時の紅白歌合戦は、今みたいにNHKホールがまだなかった時で、その時は大きい会場が手配できずに、この年だけ、新宿コマ劇場で行われていました。
当時はまだ、生放送の時なので、全てぶっつけ本番です。
今みたいに紅白歌合戦に皆さんが重きに置いていなかったため、歌手の皆さんは会場を
掛け持ちしていたため、それがすんでから、コマ劇場に掛けつけるので、時間が分からない状態だったといいます。
そんな状態で歌手の人が歌い終わって次に歌う歌手が一人もいない状態になった時は、
次の人が来るまでなんとかしなくてはいけないときは、「歌手を早く出せ」、などのヤジが飛んで泣きそうにもなったと言います。
そうこうしている時に歌手の人が、到着すると「女の人が来ると、女が来ました、男が来ると男が来ました」と、知らされます。
今からは考えられないことですね。NHKの公共放送で女が来たとか男が来たとか、もう生放送ですから現場の大変さがわかります。
その状況で黒柳さんは、女性の方が来られたようですので、はたしてどなたでしょうか、と言いながらなにかの芸で残していった犬を見て、「こちらの犬はメスですか、オ
スですかと尋ねて、メスだったら、紅組をお応援してください。」
そんなことを言ってその場をつなげたと、言います。
正に、凄いエピソードです。漫才を一人でこなすイメージです、自然とこのようなアドリブが生中継でできることは、黒柳さんの素質はもともと備わっていたと感じます。

黒柳徹子の若い頃画像⑰1958年(25歳)
当時は生放送でぶっつけ本番、今では考えられない事です。
そんな中で当時25歳という若さで黒柳徹子さんが抜擢されたことは、NHKの中でも黒柳さんの実力が評価されていたと考察します。
最初は個性が強いとか声が変とか揶揄されていましたが、それが逆に魅力に見方が変わったと思います。
この紅白歌合戦を終えたあとNHKの芸能局長から「お前はいい度胸しているなあ」と嬉しい賛辞の言葉を駆けられたと言います。
今だったら当然ですよ、と言われると思いますが、当時の局長が驚くのも無理がありませんね。
それから1980年から1983年まで、4年連続NHK紅白歌合戦の司会をされています。
若い時の経験があり、その時は段取りがすべて出来上がっており、簡単に楽しくこなせ
たと言います。それから、1015年には82歳で司会されており、NHK 以外で通算6度の司会をされています。
本当にこんなに長い間司会も含めて活動されていることは本当に凄いという事しか言えません。
著者もいつでも前向きの姿勢は見習っていきたいと思います。
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伝説エピソード⑩平均睡眠時間3時間で過労になり1カ月入院!すべての番組を降板していた!
過労で1カ月入院でレギュラー番組をすべて降板。
![黒柳徹子の若い頃の画像⑱1961年(28歳)バラエティー番組「夢であいましょう]中村八大1931年~1992年(61歳墓地)](https://hiroyukim.com/wp-content/uploads/2023/11/ea37c8792e63c78713440bf47299b7c1_color.jpg)
黒柳徹子の若い頃の画像⑱1961年(28歳)バラエティー番組「夢であいましょう]中村八大1931年~1992年(61歳没)
黒柳徹子さんは20代後半に、テレビ週7~8本、ラジオ3~4本のレギュラー番組を持ち週に10数本をこなし、生番組の為、睡眠時間が平均3時間と言う過酷なスケジュールを熟していました。
ある日、テレビの本番中に耳鳴りがして相手役の「セリフ」が聞こえなくてなってしまい、翌日には「目まいが」したため病院に行き検査したら「過労」と診断され、先生から「休まなければ死ぬよ」と言われています。
医者には入院を勧められましたが、
それでも、仕事を続けていましたが、3日目に朝になって足に赤い花弁のような斑点がいくつも出来たため(過労で赤血球が激減したため毛細血管が切れてあざになったため)して1カ月の入院を余儀なきされ、続けていたレギュラー番組をすべて降板したのです。
黒柳徹子さんが、これだけのスケジュールの仕事を熟せたのは楽しくてしようがなかっ
たんだと思いますが、でも体の方ギブアップしてしまったのです。
体はムリするとその反動は必ず来ますからムリは禁物だと思います。
そして、入院して1週間過ぎたころテレビを見てもいいと言われ、自分の出ていた番組を見てみると別の人が出ていて「今日から私がやります」なんて言って、誰も「黒柳さは1カ月で帰ってきます」言ってくれないんです。
あと、渥美清さんの奥さん役をしていたとき、「奥さんはどうしましたか。」と聞かれあっさり「実家に帰ってます。」なんて答えていたと言います。
自分の代わりはいくらでもいると、寂寥感(せきりょうかん)と無力感に襲われたそうです。
黒柳徹子さんはそれだけ一所懸命してきたのに、プライドを傷つけられて、どうしたらいいかと悩んでいて。
病院の院長先生に

「病気しない方法はありますか」
と尋ねています。「そんなことを、言われたのは初めてだ」と院長先生は言いましたけれど一つだけあると答えてくれたといいます。
普通はできないけど、ひとつだけある。それは

「好きなことをやって生きることだ」
と答えてくれたそうです。

黒柳徹子の若い頃の画像⑳1963年(30歳)
黒柳徹子さんはこれからは、好きな仕事だけしていこうと思ったそうです。
やはり、これだけのハードな仕事をしていれば必ず病気になると思います。
黒柳さんは「過労」で済んで良かったと思います。これが変な病気でもなっていたらも
っと長い病院生活になっていたかもしれません。
黒柳さんはそれから好きな仕事だけするようにしてきていらっしゃるから大病なされな
いで来られたのは何よりです。
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伝説エピソード⑪トーク番組「徹子の部屋」で同一司会によるトーク番組として最多世界記録を保持している!
トーク番組「徹子の部屋」同一司会によるトーク番組で最多記録更新中。

黒柳徹子の画像㉑2023年(90歳)
1976年2月スタートして以来、2023年9月12日をもって1万2100回でギネス世界記録更新して現在更新中です。
この日番組の途中で ギネスワールドレコーズジャパン代表・石川佳織氏から、今回で3回目のギネス世界記録認定書を授与されました。
黒柳さんは、改めて認定証を3回も頂けるなんて、思ってもいなかったので感無量だといい世界でのべ1万人以上をインタビューした人はいないと思うと、喜んでいたといいます。
この日のゲストは、「徹子の部屋」最多記録53回出演の加山雄三でした。

黒柳徹子画像㉒2023年9月12日、加山雄三さんと「徹子の部屋」ギネス世界新記録の12100回で更新した時。
加山さんからは「記念すべき瞬間に立ち会えてうれしい、徹子さんが健康だからなしえたと、俺も嬉しい、おめでとう」と祝福を送っています。

黒柳徹子の画像㉓1976年(43歳)森繫久彌1913年~2009年(63歳)(96歳没)「徹子の部屋」第1回目のゲスト
幼い時にいい思い出を作る事がいかに人の人格の構成に大事か分かると思います、だか
ら黒柳徹子さんはユニセフの活動を通じて子供たちと接しているんだと考察しました。
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伝説エピソード⑫著書「窓ぎわのトットちゃん」の販売部数が800万部を記録!さらに更新中!
「窓ぎわのトットちゃん」は世界35カ国で翻訳され世界販売部数2500万部突破。

黒柳徹子の画像㉔2023年(90歳)続。「窓ぎわのトットちゃん」発売会見
黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」は国内販売部数800万部で、戦後最大の販売部数になっています。
東京都目黒区自由ケ丘にかつて存在したいて、黒柳さんが通学していた「トモエ学園」がモデルになっています。
「トモエ学園」は小林宗作先生がユニークな教育を取り入れて始めた学校です。
「リトミック、廃車になった電車を利用した教室」などを利用している学校です。
小林校長先生の人柄や、友達、徹子さんの初恋の相手(物理学者の山内泰二)さんなど
実名で登場しています。すべてノンフィクションです。
黒柳徹子さんは、尋常小学校を1年で退学されて、トモエ学園に転向してきていますが、退学された行動が在台に気見込まれています
「窓ぎわ」はかつて徹子さんが窓側でチンドン屋さんを呼んでいたとか、執筆のとき社会情勢が「窓際族」、が話題に会ったとも合わせて、「徹子(てつこ)」を自分で「トット」と呼んでいた、ちゃんは小さい時はよくみんな「ちゃん」と呼んでいる。
それで著書の題名「窓ぎわのトットちゃん」に付けたなっています。
そして、今度、「続、窓ぎわのトットちゃん」が10月30日に発売されています。

黒柳徹子、続「窓ぎわのトットちゃん」を43年ぶりに発売
黒柳徹子は続編にきっかけは、ぼんやりしているうちに42年も過ぎてしまっていて、ロシアがウクライナに進行して「子供たちはどうしているだろう」と思ったこと。
自身の戦争体験を思い出したくはないけれど、青森に疎開していた経験があり、そのこ
とも書いておく必要性を感じたからと述べています。
今まで「窓ぎわのトットちゃん」の映画化、テレビドラマ、舞台ミュージカルなどをた
びたび打算を受けていたけど、小林先生の役をやる役者が見当たらないと言って断ってきたと言います。
7年ぐらい前に、アニメ映画はどうですかと、八鍬新之助監督から、話を頂いて、快諾したといいます。

八鍬 新之介(やくわ しんのすけ、1981年 – )は、日本の男性アニメーション演出家・アニメーション監督。北海道帯広市出身。
「窓ぎわのトットちゃん」アニメ動画が決定。
黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」がアニメ動画が決定してされました。
公開は、12月8日です。こうご期待です。

黒柳徹子の画像㉕2023年(90歳)「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画が決定で、子役大野りりあなちゃん(7歳)と
黒柳徹子さんと手をつないでいる子が「トットちゃん役」の大野りりあな(7歳)ちゃんです。
大野りりあなちゃんは、イラン人のお母さんと日本人のお父さんでハーフです。
黒柳さん自身もママ役で出演されています。
「窓ぎわのトットちゃん」の役者さん達の皆さん。

黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画での役者人役所広司1956年(67歳)、小栗旬1982年(40歳)、杏1986年(37歳)、滝沢カレン1992年(31歳)、
小林先生(小林宗作)…役所広司
トットちゃんが転校するトモエ学園の校長。トットちゃんに「君はいいこなんだよ」と言い続けてくれた。黒柳徹子の人生の最高の先生。
パパ(黒柳守綱)…小栗旬
家族を守る優しさと力強さにあふれる、トットちゃんのパパ。日本最高峰と評判のヴァイオリン奏者。シベリアに抑留されながら、日本人捕虜を演奏で癒していた素晴らしい人。
ママ(黒柳朝)…杏
トットちゃんの心優しき母。黒柳徹子を暖かく見守ってくれた、素晴らしい母親。
大石先生…滝沢カレン
トットちゃんの担任の先生。黒柳徹子の個性を尊重して、指導してくれる素晴らしい人。
黒柳徹子さんが、「窓ぎわのトットちゃん」を書いてくれなかったら、トモエ学園も小林先生も世にでていなかっと思います。
もちろん、幼少音楽関係をしている方なら、小林宗作先生はご存知だと思いますが、著
者が黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」の存在が無ければ知りませんでした。
私の地元の群馬県下仁田町で小学校をの教員をしていたも驚いていています。
凄い人だと本当に尊敬します。そして黒柳徹子さんも小林先生に救われていたとは、地元として誇らしいです。

井森美幸タレント1968年と中山秀征タレント1967年 群馬県下仁田町、藤岡市
桜井翔
篠原涼子
氷室京介
由紀さおりさん、など代表して紹介しました。
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伝説エピソード⑬フランス人ピアニスト恋人と遠距離恋愛を40年間続けいていた!
フランス人ピアニストの恋人と遠距離恋愛40年間もしていた。

黒柳徹子の若い頃の画像㉖1954年(21歳)
黒柳徹子さん独身を貫き通していますが、NHKに応募をした時に、結婚して子供ができたら人形劇を見せて、絵本を読んで聞かせるぐらいのお母さんになりたいと、思って応募しています。
だから、当時は当然結婚するつもりだったと言えます。
事実、22~23歳頃は何回もお見合の話もあったし好きな人もいたと言っています。
結婚しょうと思った事が2~3回あるといいます。
1度目は相手の男性から、「結婚してもいいけど、結婚ってそんなに面白いものじゃないよ」と言われ結婚生活の大変さを、教えてもらい断念して、仕事の道を選んで辞めています。
こんなことを相手から言われたら、誰だって結婚はしないと思います。結婚はしないつ
もりでも相手の人の気持ちも考えて話すべきだと思います。
2度目は、結婚を決めかけてた人が1人がいたといいます。しかし、相手の歩き方が気にいらず破局したと言います。黒柳徹子さんのお母さんはすでに嫁入りためのコートを作ってくれていました。娘の行動に対して「結婚詐欺」と母親から呼ばれています。

黒柳徹子の若い頃の画像㉗20代の時花嫁衣裳姿。 結婚願望は会ったと言います。
黒柳徹子さんは20代の頃は、結婚願望はあったと思います。見合いもし、結婚寸前までいかながら、もう一歩踏み出せない、気持ちが会ったと考察します。
徹子さんは、才能も有り仕事に恵まれて仕事が楽しくてしょうがない時期でしたから、
相当の人物でないと心は動かいと思います。そして、後はタイミングだったんだと思います。
恋人 アレクシス・ワイセンベルクさんと馴れ初め。
黒柳徹子さんは38歳の時、演劇の勉強のため渡米しています。
仕事をして親しくなり、作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンスから「面倒見
てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けてとニューヨークへの留学をしていたのです。

黒柳徹子の画像㉘1941年(38歳)の時アメリカ留学ニューヨーク・マンハッタンのアパート
1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに住んで生活していたといいます。

アレクシス・ジギスムント・ワイセンベルク(ブルガリア語: Алексис Вайсенберг, 1929年7月26日 – 2012年1月8日)は、ブルガリアのソフィア出身のユダヤ人ピアニスト。 ピアニストで14歳でデビュー
プロフィール
名前:アレクシア・ワイセンベルク
生年月日:1929年7月6日
2012年1月8日スイスルガーノで(82歳没)
出身地:ブルガニア
1956年フランスのパリに27歳で移住して、その後市民権を取得
学歴:ジュリーアード音楽院
ユダヤ人:国際的なピアニスト
ドラマ「トットちゃん」では、徹子さんとピアニストのアレクシス・ワイセンベルク氏
とはNY留学前に日本でわずかに面識があり(挨拶程度)。
この時徹子さんは38歳でNY留学した時にワイセンベルクさん(42歳)と再会して恋に発展したと描かれています。
偶然に再会した時は、何か運命みたいなのを感じたんでしょうか。

黒柳徹子の画像㉙1986年(49歳)とアレクシ・ワイセンベルク氏は(53歳)来日で出迎える。
アレクシ・ワイセンベルク氏は1969年に初来日されています。
1982年の来日が9回目の訪日の際に「徹子の部屋」とNHKの「音楽の広場」と言う番組
で黒柳徹子さん、芥川也寸志さんの司会で、彼をゲストに迎えられています。

黒柳徹子の画像㉚1982年(49歳)とアレクシ・ワイセンベルク氏は(1929年当時(53歳)1982年の来日の時。
ニューヨークで再会した時に一緒にパリに来ないかと頼まれましたが、日本での「徹子
の部屋」のMCが決まっていたため、仕事を辞めてついていく決心ができず、遠距離恋愛に発展したようです。連絡はFAXでのやり取りだったそうです。
現在のようにlineなどのやり取りができていれば良かったと思われます。
黒柳徹子さんが、結婚に踏み切れなかったわけ。
①ワイセンベルクさんは世界中飛び回る有名ピアニストで、会えるのは年に1回か2回程度だったと言います。
そんな中で徹子さんは連休が取れると直ぐにアポなしであいに行っています。
ある時にCDを購入してサインをもらうために列に並び、そう姿にワイセンベルクさんが気が付くと喜んでいたと言います。
すぐに飛んでいったことを見るとは徹子さんも熱心だったと思います、女恋心が垣間見えます。
②ワイセンベルグさんは、持病があったと言う。
ワイセンベルグさんは、長い間、パーキンソン病を患っていたと言います。

黒柳徹子 の画像㉛2022年(89歳)
黒柳徹子が噂になった3人の男性。

田川啓二1959年服飾デザイナー黒柳徹子事務所代表
- 名前:田川啓二(たがわけいじ)
- 生年月日:1959年
- 出身地:東京都港区
- 職業:実業家、服飾デザイナー、ビーズ刺繍が専門
田川さんが初めて「徹子の部屋」に出演された時から気が会ったと言います。
「徹子の部屋」出演されている姿を見ると、田川さんは礼儀正しい方だと印象受けました。
2018年に2回目の「徹子の部屋」に出てから黒柳さんは、年が20歳も違うのにこんなに「趣味、好み」など気が合うとは思ってもみなかったと述べています。
現在は徹子さんのマネジャー、事務所の代表に就任して、二人三脚の関係になっていま
す。いかに黒柳さんが田川さんを信頼しているかわかります。

黒柳徹子の画像㉜2017年(84歳)と田川啓二(58歳)マネジャー、黒柳事務所社長。
著者も、徹子さんと田川さんの二人で「気まぐれTV]youtubeチャンネルをを見ています。田川さんが徹子さんを優しくサポートする姿が、すごくいいです。
田川さんの司会進行で面白可笑しく番組を作っているので楽しく拝見しています。
田川さんは最初は番組を見ていたときはきざな人に見えましたけれど、番組を見ていると飾り気のないい人だあと印象を受けました。
黒柳徹子さんは本当に良いパートーナーに恵まれて良かったと思います。
2人目は【永六輔}】さんです。日本の放送作家、作詞家。

黒柳徹子の画像㉝1982年(49歳)と永六輔1933年~2016年(83歳没)
名前:永六輔(えいろくすけ)
本名:永孝雄(えいたかお)
生年月日:1933年4月10日
出身地:東京府東京市浅草区
没:2016年7月7日(83歳)
職業:放送作家、作詞家、タレント
学歴:早稲田大学第二文学部史学科中退
黒柳徹子さんと永六輔さんの付き合いは60年以上の付き合いだそうです。
正にテレビとラジオ創成期で活躍されたお二人です。話し出したら終わらないくらいネタは尽きないと思います。
永六輔さんはまさに天才と言われるほど各方面で活躍された人です。
「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」知らない人はいない位名曲です。
それに数々の明訓は角界の人に影響与えたと言われています。
黒柳徹子さんは実際「結婚話はありました」と言っていますが、お互い、昌子さん「永
さんの亡くなられた奥さん」のようにはいかないよあ・・・と
永六輔さんは言っていたといい、話はそこまでのようです。奥さんをそれだけ愛していたといいます。
永六輔さんのお別れ会の発行人は黒柳徹子さんでした。

黒柳徹子の画像㉞1933年、永六輔1933年~2016年(83歳没)渥美清1928年~1996年(68歳没)
永六輔さんとは「夢で逢いましょう」と言う、番組で初めて会いました。付き合ってから60年以上たちますが、ケンカは一度もなかったといいます。
友達も亡くなり、永六輔さん亡くなり、最後の一撃のようだと故人を忍んでいます。
3人目は【ジャキー喜多川】さん日本の実業家、芸能プロモーター、音楽プロデューサー

ジャーキー喜多川、ジャニーズ実業家/プロモーター/音楽プロデューサー1931年~2019年(83歳没)
名前:ジャキー喜多川
日本名:喜多川拡(きたがわひろむ)
英語名:ジョン・ヒロム・キタガワ
生年月日:1931年10月23日
没:2019年7月9日(87歳没)
職業:実業家/プロモーター/音楽プロデューサー
ジャニー喜多川氏は1962年にジャニー事務所を立ち上げて、数々のスターを育て上げてきました。
現在は自身の性加害が明るみに出て問題になっています。その問題が続いてる現状です。そんな中で、黒柳徹子さんとのジャニーさんとの交流を明しています。
徹子さんはジャニー喜多川さんの事を【旦那さま】と呼んでいた。
なぜそのわけは・・・
そては、30年から40年前に「黒柳徹子とジャニー」が結婚すると言う、ファックスがマスコミに出回った。会見は、「テレビ朝日の第一リハーサル室」でやります。それを聞いた、ジャニー喜多川が怒って。「帝国ホテルの金屏風の前だら分かるけど、あんな汚い第リハ所でやりたくない」。
それから、徹子さんはジャニーさんの事を「旦那さま」と呼ぶようになったという。
ジャニーさん電話をかけてきて本人も「俺、旦那だよ」と言った。そんなジョークができる関係のようです。
2019年9月4日のジャニー喜多川の「お別れ会」でこのような関係を明かしていました。ジャニー喜多川さんは黒柳さんより2歳年上だから兄のように慕っていたと思いまます。
ジャニー喜多川さんのシービジネスの功績をたたえ、亡くなったことは大きいと損失だとも述べています。
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伝説エピソード⑭若い頃は年収が10憶円超だった!
黒柳徹子さんは1981年から1985年まで5年間、タレント部門で高額納税者で1位に輝いています。

黒柳徹子の画像㉟1985年(52歳)
黒柳徹子さんは、1981年から1985年の5年間と1987年には、高額納税者の、俳優、タレント部門で、森繫久彌、大橋巨泉、石原裕次郎、三船敏郎、三田圭子などの時代を代表する、タレントを抑え1位に輝いています。
ちなみに、1981年の納税額は1億9910万円でした。
これだけでも、黒柳徹子さんがいかにこの時代に活躍していたが分かります。本当に凄いの一言です。でもほとんど税金では悲しいですね。
ちなみに、1985年には政府税制調査会に招かれて、意見を述べています。
「現在の私の収入は90%税金。1時間の番組で何分間話したらあとは全部税金。原稿用紙400字行詰めの2行書いたら、18行は全部税金。こんな事では勤労意識が失われる。最高税率を10%と下げて欲しい」と発言しています。
黒柳徹子さんの発言が聞いたのでしょうか。それから、2年後には最高税率が60%に下げられています。
黒柳徹子さんは知名度があって高額納税しているからこの発言が政治家を動かしたと言えます。
黒柳徹子さんの年収はいくら・収入源は
黒柳徹子さんの年収は推定4億円と考えられます。
年収の大部分は
- テレビ出演
- Youtube
この二つが現在の収入です。
黒柳徹子のテレビ出演のギャラ
- 徹子の部屋
- 世界ふしぎ発見
- 5分でみんなの手話
- 「はい!テレビ朝日です」
- 「日曜日の初耳学」世界一インタービュア黒柳徹子vs林修・ベストテン秘蔵映像 参考 IPG番組表
黒柳徹子さんのレギュラー番組は現在「徹子の部屋」「世界ふしぎ発見」「5分で手話」です。
出演番組ギャラ相場
- レギュラー番組 20~80万円/1時間
- ゲスト出演番組 10~30万円/1時間(ゴールデンの高視聴率番組)
出演者によってギャラは異なると思います。

黒柳徹子の画像㊱2019年(58歳)「徹子の部屋」
黒柳徹子さんは「徹子の部屋」ギャラ
- ギャラは1回で150万円~200万円
- ゲスト出演1回で15万円
で想定すると徹子の部屋だけで
- 150~200万円/1回のギャラ×5回=750~1000万(一週間)
- 750~1000万円/4回のギャラ=3000~4000万円(1カ月)
- 3000~4000万円/×12ギャラ=3億6000~4億8000万円
黒柳徹子さんは「徹子の部屋」だけで、年収は3億6000万円~4億8000万円になります。
黒柳徹子さんは、「徹子の部屋」だけで、年収が4億前後の年収になるころが、わかります。
この固定給だけでの年収ですから凄い事だと思います。そこにCM 、youtubeやゲスト出演が、加わります。
黒柳徹子さんのCM のギャラは
黒柳さんの2023年の現在のCM出演はありませんが、これだけ知名度のある方なので、まだまだCMのフォアが当然来ると思われます。

黒柳徹子の画像㊲2022年(89歳)東京ガスCM2022年
過去のCMでギャラを見てみたいと思います。黒柳さんといえば東和薬品と東京ガスのCMに出演されています。
黒柳さんの場合は、固定報酬制度で、1本あたり3000万円と言われています。
昨年まで、東和薬品と東京ガスと2本契約でしたから
3000万円×2本=6000万円となります。
今年はないですから、6000万分がなくなります。
黒柳徹子さんのYoutubeのギャラは
現在の徹子さんのyoutubeを2021年7月に始めています。
「チャンネル気まぐれTV」は、登録者数は、22,6万人で約160本の動画を上げています。

黒柳徹子の画像㊳2022年(89歳)youyube10万人突破記念の楯
約1年でチャンネル登録者数が10万人突破するとはやはり凄い事です。
上沼恵美子さんと、初対面が怖いと言っていた動画、打ち解けたら楽しく対談しています。この動画は何と140万再生をしています。
黒柳徹子さんのyoutubenoチャネルの収益はどのくらいでしょうか。
Youtube動画投稿で得られる収益は「動画1本の再生回数×動画本数×再生あたりの再生あたり動画収入」と言われています。
- 70000万回×0,34/1回動画再生=23800円
- 23800円/1日×30日間=714000円/1カ月
- 714000円/1カ月×12カ月=8568000円/年間
黒柳徹子さんのyoutube 動画収益ですが変動しますからこの通りには行きません。
黒柳さんには少ないかもしれませんが一般人なら大変な額です。これ位稼げるようになったら最高だと思います。
黒柳徹子さんの印税のギャラ

黒柳徹子の画像㊴2023年(90歳)続。「窓ぎわのトットちゃん」の発売会見
- 1650円(一冊の値段)×10%=165円
- 165円(一冊当たりの印税)×800万部=13億2000万円
黒柳徹子さんにはこの13億2000万円が入っていることになります。
黒柳徹子さんは「窓ぎわのトットちゃん」の印税をすべて寄付をしています。
中々できるものではありません。この姿勢があるから、皆さんが敬うことだと思います。
印税を全額寄付して設立した「社会福祉法人トット基金」
黒柳徹子さんは著書「窓ぎわのトットちゃん」の印税を全額、「就労継続支援B型施設」「トット文化館」と「日本ろう者劇団」運営にあてています。
黒柳徹子さんが、弱い障がい者にてを差し伸べるのは本当に頭が下がります。
このような人たちが安心して楽しく仕事ができる場所を与えて一緒にできる施設は本当にありがたいと思います。

社会福祉法人トット文化会館。品川区西品川2-2-16
- 就労継続支援B型施設「トット文化館」
- 「日本ろう者劇団」運営
もう一つの聴覚障害の人達が狂言伝統芸能や演技など、全国各地で公演活動されているといいます。
さらに、テレビに出て手話の活動もされているといいます。
ろう者の俳優さん達、普通の人達も一緒に活動をされているといいので、そういうことも、すごく勇気付けられると思います。
黒柳徹子さんが、このような施設を運営してもう40年もたっているとは、本当に人の役に立っている仕事をしていると思います。
13億円以上という巨額の印税をすべて社会福祉に投じ、「トット基金」を設立した徹子さん。
自分の資産を独り占めせず、**「次世代への社会貢献(フィランソロピー)」や「障がい者雇用の就労支援」という形で持続可能なシステムを構築したその姿は、現代の「富裕層の資産防衛・財団設立」の最高峰のお手本です。
また、ユニセフ親善大使として世界中を回る彼女のバイタリティは、徹底した「予防医学」や「大人の健康管理」に支えられており、90代を迎えても衰えないその知性と美貌は、真の「ウェルエイジング(美しく健康に年齢を重ねる)」**の象徴です。
黒柳徹子さんはユニセフ親善大使もされている。

黒柳徹子の画像㊵ユニセス親善大使で世界各地に訪問
黒柳徹子さんは1984年からユニセフ親善大使をして活躍しています。
アジアでは初の親善大使で、現在は最古参になっていると言われます。長い間活躍されていることがわかります。
黒柳徹子さんは、おしゃっています。
ユニセフ親善大使に就任してから、38年の間に、のべ43万人から63億円(2022年6月末)までと言う。ものすごい金額を送って頂いた。
ユニセフ親善大使黒柳徹子の口座に振り込んでいただいたお金は、事務手数料1円もいただかずに、全額ニューヨークのユニセフ本部に送らせていただいています。
素晴らしいと思います。事務手数料は本当は何処でも引いていると思います。
人から寄付して頂いたものは1円なりとも無駄にしないその心がけは、ほんと尊敬の念にたえません。
やはりこういう人が公の職務に就くべきだと思います。
世界中の人に読まれている「窓ぎわのトットちゃん」は誰でも共感してくれていると感じる思いが同じだと思われます。
黒柳徹子さんのユニセフ親善大使の年間報酬額は
ユニセフ親善大使年間の報酬は1ドルだそうです。
黒柳徹子さんのユニセフ親善大使の仕事は、完全な慈善事業になっています。
これによって日本政府から、2003年に勲三等瑞宝章(現:瑞宝中綬章)を授与されています。
このユニセフ親善大使の仕事は徹子さんのライフワークになっていると思います。
ユニセフ親善大使の仕事をしていなかったら、のほほんと過ごしていたんだろうな、感想の述べています。
黒柳徹子さんはユニセフ親善大使の仕事は100歳までやりたいと言っています。
健康でやれることを願うばかりです。
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伝説エピソード⑮西麻布に豪邸を購入!86歳のときに売却してタワマンションに引っ越していた!
黒柳徹子さんの「西麻布の豪邸が22億円で」売りに出ていた。

黒柳徹子がにし麻布に1986年に建てた、豪邸、その後、石橋シェフからコンサル投資会社に渡り、売却されている。売り出し価格は22億円とされている
黒柳徹子さんは1986年に母親の朝さんと住むため、西麻布の587mの土地に「トットちゃん御殿」と呼ばれる土地と建物合わせて10億円の豪邸を建築しました。

黒柳徹子さんが建てた豪邸の中のプール付き住宅内部
地下1階、地上2階建ての邸宅でトレーニング、プール付きの豪邸になっています。
2階には黒柳さんが住み、1階には料理番組の「料理の鉄人」で有名の石橋裕シェフのフランス料理店がテナントと入って営業していました。

料理の鉄人石橋裕シェフ
トレーニング、プール付きで、料理店が入るとは大きな建物だと思いますが、それにしても凄いたてものですね。
黒柳徹子さんは不動産好きのようで、他にも六本木、南青山にあり、さらに中央区佃に3億円のマンションを購入しています。
一時は借金が13億もありと報じられていて。その支払いで首が回らなくなり売却を決めたと言われています。
1997年に石橋シェフには売却価格は6億円で売却しています。
黒柳さんにとっては4億円はかなりの痛手になったと思います。
不動産価格は需要と供給の関係ですからタイミングがあると思いますが、その時はその
決断が黒柳さんにはベストだと判断したんだと思います。
2019年に石橋シェフが、その後いくらで売却されたかわかりませんが、資産運用のコンサル会社に売却されています。
現在の黒柳さんの豪邸と呼ばれた「トットちゃん豪殿」は非公開でに22億円で内々に売り出されているようです。

黒柳徹子弾が建てた西麻布の豪邸
現在も非公開で売り出されているがまだ買い手は現れていないようです。
価格は22億円で売り出しているらしいです。新しい情報が出れば追記したいと思います。
黒柳徹子さんの新しい引っ越し先はタワーマンション。

黒柳徹子の画像㊶2017年(84歳)
黒柳徹子さんは、米寿を迎えたころから、生活をコンパクトにしたいと、周囲に話していたといいます。
これまで黒柳さんは不動産好きで、都内の一等地に複数の物件を所有していました。
ここ数年の間に周囲に話していた通りコンパクト化を進めてきています。
2004年には中央区のマンションを1戸を、2017年には港区のマンションを2戸売却しています。
「高齢になると不動産の契約更新や売買などの複雑な手続きが難しくなりますし、認知症になって契約手続き自体ができなくなるリスクもある。相続や遺産分割など後々のこともあるので、元気なうちに不動産を現金化して、扱いやすい資産にしておこうと考える人は少なくありません」(不動産会社関係者)
黒柳徹子さんは、不動産などの複雑な手続きが自分ができなくなると困るから、なるべ
く資産を簡素化にしていくようにしたと考察します。
「アーケード商店街の周辺に平静な住宅街が広がる、若い層に人気を集めるエリアで、
しかもタワーマンションの39階を購入されたといいます」

南千住のタワーマンション、ロイヤルパークタワー南千住
ロイヤルパークタワー南千住。このマンションは天然温泉付きフィットネスジムも完備されています。
おそらくここに黒柳さんは引っ越したと思われます。というか、黒柳さんには似合わない場所だと都心近くに長く住んでいたから、スッキリしない引っ越し先だという。(テレビ関係者)は述べています。

南千住ジョイフル三ノ輪の商店街
南千住には「ジョイフル三の輪」という商店街もあります。
若いファミリー層には確かに住みやすいと思いますが、黒柳さんには、ちょっと似合わないような気がします。タワーマンションは見晴らしはいいかもしれませんが、黒柳さんは大丈夫でしょうか。
黒柳さんにいつも寄り添っている男性がいます。
田川さんは「徹子の部屋」に出演した縁で親交を深め、2016年には黒柳さんの事務所の代表に就任されています。
田川さんにはAという弟分がいて、自分の事務所代表をAさんに譲り黒柳さんがタワマンを購入したタイミングでAさんも同じフロアで生活を始めています。
田川さんもAさんも以前からこの地域を拠点で暮らしていて、この引っ越し先のマンションを進めたのもこの二人だと言われます。(前出・テレビ関係者)
黒柳徹子さんは最後は彼らにたくしたい。
徹子さんは、2006年母親を亡くし、長い間一人で暮らして生きてきて、田川さん、Aさんの存在が頼もしく、信頼できる、彼らと同じマンションで生活できることが、ありがたく嬉しかったに違いありません。

黒柳徹子の画像㊷2023年(90歳)、田川啓二1959年(64歳)
田川さんとは2002年「徹子の部屋」に出演したのをきっかけに親交を深めたようです。
2006年に亡くなった、黒柳さんのお母さん(朝さん・享年95歳)も彼の大ファンだと言います。(黒柳さんの知人)
黒柳さんと田川さんの二人のyoutubeを見ていると、本当に信頼している感じがします
黒柳さんに全面的に任しているから、なにかあった時の為に同じマンションの屋根の下で暮らすことを選んだと思います。
黒柳さんは、田川さんと弟分のAさんに最後はお世話になるつもりだと考察します。
そのための引っ越しだし、事務所の代表にして仕事生活全般を田川さん任していると思います。
相続は、二人の弟と、妹の三人が相続すると思いますが、仕事の後見人は田川さんに任せてあいると思います。
タワーマンションではなく都内のマンションと言う情報。
黒柳徹子さんは、2022年3月にタワーマンションを購入した報じされていましたが、5月11日に購入したのはタワーマンションではく賃貸マンションだという情報がでてきました。

黒柳徹子さんの画像㊸2023年(90歳)
5月11日のフラシュによりますと。
都心のマンションから仕事に向かい、帰宅する様子を確認したと報じています。
「黒柳さんは現在、都心のあるテレビ局の近隣に住んでいると聞いています。週5回放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に加え、他番組の収録もあるので、各テレビ局へのアクセスのよさは必須なのでしょう」
著者は黒柳さんは、毎日「徹子の部屋」週5回とその他の仕事があるのでテレビ局の近隣の近くのマンションを用意したのだと推測します。
黒柳さんが住んでいるあのマンションは、全戸賃貸の物件ですよ。大手ディベロッパーが管理しています。特徴は、貸主側からも期間満了で契約を終了させられる定期借家制度を採用していること。また、契約更新に際しては、定期的に入居者の審査があり、セキュリティも厳重です。そのため、収入が安定しない駆け出しの芸能人では、住むのは難しいでしょう。その意味で、本当のセレブだけしか借りることができないマンションなんです」(不動産関係者)
ちなみに、このマンションは月約30万円~80万円といわれています。この物件は定期借家制度のおかげで芸能人が住むのはけして高くはないと言います。
なぜ、賃貸マンションなのか。
黒柳徹子さんは、都内のマンションを売却した時点で、「黒柳徹子記念財団」を立ち上げています。
この都内の賃貸マンションに住んでいるのも、賃貸だと自分に何かあっても辞めればいいだけの事で、複雑の事は避けたと思います。
1986年に西麻布の一等地に建てた、プール付き10億円の「トットちゃん御殿」。現在は非公開で22億円で売り出されているという驚愕の不動産アーカイブです。
徹子さんが80代後半を迎えてから、これらの複数の都内一等地の物件を売却し、コンパクトな生活空間へ移住したことは、不動産業界やシニア世代の間で**「完璧すぎる生前整理(終活)」として大絶賛されました。
高齢になってからの「不動産資産の現金化」や、定期借家制度を利用したハイクラスな都心賃貸マンションへの住み替えは、認知症リスクや将来の「親の遺産相続・遺言書作成・税金対策」を全てクリアにする非常にスマートな経営判断です。
自分の身の回りを着々と美しく整理(ダウンサイジング)し、信頼できるパートナー(田川啓二さん)に後見を任せて、残りの人生を大好きな仕事(徹子の部屋)だけに集中させる。
黒柳徹子さんはお友達が、次々亡くなられて、寂しい気持ちと自分の身の回りを着々と準備していると思われます。
後は、健康に注意してじぶんの好きな仕事だけ楽しんでできればいいとそんな気持ちだと思います。
この「究極のシニアライフプラン・資産防衛」**の美学こそが、黒柳徹子さんのケタ外れな伝説の、最も知的なエピソードと言えるでしょう。
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伝説エピソード⑯若い頃から築き上げた交友関係がすごい!

黒柳徹子の画像まる441953年(20歳)
黒柳徹子さんは、テレビの創成期から現在でも活動しています。
今でも、「徹子の部屋」「世界ふしぎ発見」、youyubeチャンネル、ユニセフ親善大使など様々も顔をもっています。
そんな中で、黒柳さんの思い出の強い方をを見てみたいと思います。
1.森繁久彌さん(1913年~2009年96歳没)

黒柳徹子の画像㊺1976年(43歳)と森繫久彌1913年~2009年(96歳没)
森繫久彌は2009年に亡くなられています。「徹子の部屋」の第一回目のゲストが森繫久彌でした。
徹子さんは、この番組の進め方を「どう進めた方だいいですか」と聞いたら、「好きなように喋らせたらいいんじゃなの」と方向性を示していただいたと、述べています。
森繫さんは見事の答え方がシンプルで見事だと思います。
森繫久彌は黒柳さんに会うと必ず「一回どう?」と尋ねられて、徹子さんは「なにを?]
と最初はわからずと答えたら不思議がっていたそうです。
次からは「いつでもいってくださいね」が挨拶代わりに、なったとか。
森繁久彌はユーモアセンスがって大物俳優はやっぱり違うなと感心しました。
2.永六輔さん(1933年~2016年83歳没)

黒柳徹子㊻1992年(59歳)と永六輔1992年(59歳)(83歳没)
永六輔さんは「言葉の天才」と言われています。
永六輔さんの言葉で、仕事や人生が激変した芸能人は数知れないといいます。
黒柳さんは永六輔さんとは60年ほどの長い付き合いで一度も喧嘩したことがないと言い、「今楽しむ天才」でもあったと言う。

坂本九1941年~1985年(44歳没)と梓みちよ1943年~2020年(77歳)
永六輔さんはNHKの番組「夢であいましょう」、坂本九さんの「上を向いて歩こう」梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」など、かずかずのヒット曲を連発しています。
永六輔さんはテレビから、ラジオも創成期から活躍されて時代を切り開いて、多くの人
に生きる元気を与えられたことは、本当にその功績は大きいと思います。
3. 渥美清さん(1928年~1996年68歳没)

黒柳徹子㊼1933年(26歳)と渥美清1928年(31歳)
黒柳徹子さんと渥美清の初共演はNHKのドラマ(お父さんの季節)(1958年~61年)です。
このドラマでは、渥美さんのお見合い相手の役だったそうで。
後に、二人は夫婦役もしています。
渥美さんのその時第一印象は、最悪だったと。
最初は浅草から来た人だと聞いたので、気を付けていました。目が鋭かったのを覚えています。
台本読み合わせの時、冗談いったら、

「なんだこのアマ」
といわれ、わたしは、

「そうおっしゃいますと」
いったら、

「あ~あやだやだ、この手の女は」
と言い返されたそうです。
まさに最初は、渡世人のような感じですね。
2回目は、あの伝説の歌とコントのバラエティー番組「夢であいましょう」です。
そこでは、上記のようなコント連発で仲良くなり、二人は「お兄ちゃん」「お嬢さん」と呼ぶ中になっています。
それから、渥美清さんが「男はつらいよ」を出演するようになり、二人はいつも初日に新宿に映画を見に行ったといいます。
渥美さんは、徹子さんがどこで笑うかを見ていたと言います。
当時、黒柳徹子さんが渥美清さんとの仲が雑誌に取り上げられて、その写真が黒柳さんはちゃんとした写真に対して渥美さんは、チンドン屋風の写真ばかりで嘆いていたという。後に「徹子の部屋」でも、話題になっています。
黒柳徹子さんは、当時を振り返り「お兄ちゃん」は私の事を好きだったんじゃないかと述べています。
山田洋次監督は、「男はつらいよ」最終章は、黒柳徹子さんをマドンナ役で幼稚園の園
長さんを考えていたといいます。
これは、かなわぬ夢で終わりましたが、渥美清さん「お兄ちゃん」の面影は黒柳徹子さ
んの心にずっと残っていると思います。
4.野際陽子1936年~2017年(81歳没)

黒柳徹子の画像㊾1933年(82歳)と野際陽子1936年(81歳没) この写真は2015年
野際陽子さんが、テレビでドラマ、キイハンターに出ていたことは知ってい、スマート
で恰好いい姿に感動して見ていた記憶あります。
でも、野際さんが元NHKのアナウンサーとは知りませんでした。
黒柳徹子さんは当時NHKに入社して5年経過していた時に名古屋支局から転勤されてきて出会っています。
当時、黒柳さんは野際さんを見ては目がきらっとして知的な印象があったと述べています。
その後、意気投合して、なんでも話し合える友達になって行ったといいます。当時は、
既製品がない状況でしたので、私が洋服を作っている所で二人で洋服を作ったことがあるといいます。
二人とも、互いに遠慮のない話し方が共感を覚え意気投合したと考察します。
恩師の飯島先生から、「君はこれから外国に出て行くことになるだろうから、外国語を勉強しましう」といわれ、」野際さんと、NHK局内で外国の先生から、一緒にフランス語を習っています。。
飯島匡さんの先見の目は凄いですね、黒柳さんも、野際さんもその通りになっています。
その何年後かに、野際さんはフランスに行って、英語・フランス語はペラペラだといいますから驚きです。
黒柳徹子さんもアメリカ・ニューヨークに留学していますから、二人とも飯島先生の言う通りになっています。

野際陽子1936~2017年(81歳没)すらりと伸びた美脚
本当に綺麗な脚線美です。
野際さんは、立教大学時代はミス立教。
フランスから帰国の時はミニスカートでタラップ颯爽と降りてきて話題になっています。そして、ミニスカートは日本第一号と呼ばれています。
野際さんは才女であり凄い逸話の持ち主でもあります。
野際さんがNHKを退職されてから、疎遠になっていましたが、「徹子の部屋」のは16回出演されています。会っていなくても、話始めればすぐに会っていたこのように話が弾んだといいます。

黒柳徹子の画像㊿1933年生まれと野際陽子1936年~2017年(81歳没)
テレビ朝日のドラマ「安らぎの郷」も楽しみに見ていたと言い、2,3日あなたの事ばかり考えていたといいそれが「虫の知らせがあった」と事を明かしています。
直ぐ聞けばよかったと、悔やんでいると言う。
野際さんは、なにを黒柳さんに話したかったんでしょうね。
男女間の恋愛の話でしょうか。それは神のみのが知ってることでしょうね。
黒柳さんは、60年以上の長い付き合いで同じNHK時代で苦楽を共に過ごした一番仲の良
かった親友の死は心に深くしみ込んだに違いありません。
5.池内淳子1933年~1010年(76歳没)

池内淳子さん1933年~2017年(81歳没)
池内淳子さんは1933年生まれで、黒柳さんと同級生です。
黒柳さんが通った同じ「トモエ学園に」通っていたのです。
TBSテレビドラマ「甘柿しぶ柿つるし柿」で黒柳徹子さんと池内淳子さんは共演したことで友人になっています。
その時共演した山岡久乃さんと三人で「老後は同じ老人ホームに入ろう」と(冗談交じり)約束する中になっています。
池内淳子さんが「トモエ学園」に入っていたと言いますから、偶然の一致だと思います。
どちらにしても後に、二人とも大スターになったのですから、凄い事です。
池内さんは墨田区両国の塩物問屋の長女として生まれ1952年十文字高等学校卒業後、日
本橋三越に入社ご呉服売り場に後の前田通子おりふたりの美貌が評判になったといいます。三越は一年で退職されています。

池内淳子女優1954年(21歳)
池内淳子さんも、黒柳徹子さんと、ほぼ同時期に芸能界にデビューしています。
1954年(昭和29年)週間芸能誌「サンケイグラフ」の第2回「カバーガール」に応募。
同年9月10日に新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝いて同社へ入社しています。
1955年(昭和30年)に「皇太子の花嫁」で映画デビューしています。
テレビ業界が主塾
1962年(昭和37年)「よろめきどらま」(現在不倫ドラマ)で人気を博しています。
お嫁さんにしたい女優でも上位にランクインされ、人気、演技力ともテレビ女優ナンバ1位を確立していく事になります
和服の似合う上品な美貌の持ち主として1960年~1980年ぐらいまでテレビドラマの女
王として君臨していたと言うから、池内淳子さんも凄い経歴の持ち主だったんです。

黒柳徹子の画像51枚2022年(89歳)
黒柳徹子さんは池内淳子さんの訃報を聞いて「徹子の部屋」で追悼特集を組んでいます。
黒柳さんは「幼稚園の時から友達だった池内さん、年を取ったら、山岡久乃さんと三人で同じ老人ホームに入りましょうと約束しましたね。山岡さんの指令で、あなたは何もしなくていいから、わたしたちを和ませる人というやくわりでしたね。本当に池内さんは何時あっても、どんなスターのときも穏やかで優し暖かいお友達でした。あなたがいなくなったテレビは誰が和ませてくれるのでしょうね。あまりの突然のことで声も出ません。本当に悲しいです。池内さん本当に今までの友情ありがとう」とコメントをよせています。
黒柳徹子さんは、何人ものお友達に次々先立たれて万感の思いだと感じざるえません。
どんな立派で優れていても健康に気を使っていないと思うようには生きられないと思います。
黒柳徹子さんは今以上に健康に気を使って一日でもいいから長生きをしていただきたいと思います。
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黒柳徹子のアメリカ・ニューヨーク留学時代

黒柳徹子の画像52枚1971年(38歳)ニューヨークマンハッタンで
黒柳徹子さんのアメリカ留学の動機
黒柳徹子さんは演技力を付けるため、慕っていた杉村春子に文学座に入りたいと相談して入所しています。
二年過ぎたころ、『風と共に去りぬ』のミュージカル版に出演した時に親しくなり、作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けています。
当時黒柳さんは、仕事が順調でしていましたが、どこかにこのままでやってけるのかと言う一抹不安があって、いつかどこかで勉強したいと思っていたところあってニューヨークへの留学することを決心したといいます。
留学にあたって、先輩の方からこのような言葉を頂いています。
「私なんかは、養わなきゃならない家族があって、そんなこと出来ないけど、あなたは身軽で出来るんだから、ゆっくりしてらっしゃい」(故・山岡久乃さん)
「いいね、休んどいで。でも、私は、2年は長いと思うよ、日本の芸能界は、待ってくれても1年だと思うよ!」(故・沢村貞子さん)
山岡さんと沢村さんの暖かい励ましの言葉は黒柳さんにとってありがたいと思ったにつがいありません。
やはり、芸能界の大御所だけあって親身なアドバイスは心強いと思いました。
このように接してお貰える黒柳さんの人柄かもしれません。
「帰ってきて仕事が無かったらどうするの?」と聞かれ徹子さんは
15年テレビの世界でやってきて、帰ってきて仕事がなかったら、それは才能がなかったってことだから、違う仕事をやればいいじゃないかと思ったんです。

黒柳徹子の画像画像53枚1971年(38歳)ニューヨーク留学時
黒柳徹子さんのニューヨーク暮らしを満喫している姿がから充実している様子が伺えます。今と比べるとまるで別人ですね、物凄く洗練され綺麗です。
本当にスタイルがよく可愛いのがわかります。

黒柳徹子の画像54枚1976年(38歳)ニューヨークで
ニューヨークで買い物を楽しんでいる様子です。

黒柳徹子の画像55枚1971年(38歳)ニューヨーク、マンハッタン
セントラル・パーク西隣のワンルームに住んで生活。
プロを養成する演劇学校に「メアリーターサイ」て演技を学び、初の東洋人の生徒となる。また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学んでいます。

黒柳徹子の画像56枚1971年(38歳)ニューヨーク、マンハッタン

黒柳徹子の画像57枚1976年(38歳)ニューヨークセントラルパークで
こちらは、毎日セントラルパークに自転車で散歩をしていたと言っています。
かわいいワンちゃんを癒していますね。
黒柳徹子さんは楽しいいニューヨーク生活を満喫している様子が伺われる様子が見えます。私生活でもかなり充実したと言いますから、実り多い1年になっていたと思います。
黒柳徹子のトレードマークヘア?
黒柳さんのトーレードマークヘアはニューヨークで知り合って友人となった。
アメリカで活躍中のヘアメイクアーティストの須賀勇介のアイディアを交えつつ、
後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案した。

黒柳徹子の画像58枚1971年(38歳)須賀勇介1942年~1990年(48歳没)カリスマ美容師
「あなたのように1人でニューヨークに行って世界観を持っている人の感覚が必要としているんです。あなたのそのままの感性で好きに話してほしい」

黒柳徹子さんの画像59枚1976年(43歳)「徹子の部屋」2月スタート
「徹子の部屋」は1976年2月スタートして、現在47年目です。同一司会のトーク番組で世界記録更新中です。
ここまで続くとは誰も思わなかっとことでしょう。
黒柳徹子さんの人生でのターニングポイントと言うべき決断が凄いと思います。
それは黒柳徹子さんのその後がみんないい方向に行っていることは努力の結果だと思います。
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黒柳徹子の若い頃画像年表

黒柳徹子の画像60枚幼少期、NHK時代、ニューヨーク留学の時
この画像は黒柳徹子さんの自身のInstagramに投稿したものです。
小学生時代、NHK時代、ニューヨークに留学している時の写真です。
黒柳徹子さんの若い頃は、信じられない可愛らしさしとスタイルのいい美人だったという事がわかります。
そこで若い頃をもっと知りたくなり、NHK入社した20歳から30歳前半中心に振り返って見たいと思います。

黒柳徹子の若い頃画像66枚1953年(20歳)~1957年(24歳)

黒柳徹子の若い頃画像69枚1958年(25歳)~1962年(29歳)

黒柳徹子の画像72枚1963年(30歳)~1966年(33歳)
- 日本でテレビの放送を開始した初日からテレビ出演を続ける(1953年2月1日)
- 日本史上最初のテレビ女優であるテレビ草創期から活躍を続けるタレントの一人。
- 日本史上最初のテレビ女優としては唯一、21世紀に至るまでテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けている。
- 『徹子の部屋』では、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中である。

黒柳徹子の画像73年2015年(82歳)文化功労章顕彰の時
ご存知、玉ねぎヘアスタイルの黒柳徹子さんを知らない人はいないと思います。
経歴を見て頂ければその凄さが分かると思います。
まさに人間国宝的な経歴です。
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黒柳徹子・プロフィール
- 名前:黒柳徹子
- 青年月日:1933年8月9日
- 身長:163cm
- 出身地:東京都乃木坂
- カテゴリ:女優、タレント、声優、司会者、エッセイスト
- デビュー:1953年テレビ女優第一号デビュー
- 学歴:東洋音楽学校声楽科卒業
- 配偶者:独身(未婚)
- 家族:黒柳守綱(父)
- :黒柳朝(母)
- :黒柳紀明(弟)
- :黒柳真理(妹)
- :田口修治(叔父)
- 血液型:A型
- 干支:ニワトリ
- 星座:しし座
- 趣味/特技カメラ、古式水泳、水中ヨガ
黒柳徹子さんの記事を書かせてもらいましたが、改めて凄い人だと思いました。
これからもお体を大事にして、お過ごし下さい。
最後までご覧んくださりありがとうございました。
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