スポンサーリンク
1977年(30歳)の大原麗子
- 獄門島 (1977年、東宝) – 鬼頭早苗 役
- 東芝日曜劇場 (TBS)
- 第1074回 ふたりの愛 (1977年7月10日)
- 第1096回 証明 (1977年12月11日) – 高木久美子 役
- 悲曲 禁じられた愛 (1977年、YTV) – 佐伯遙子 役
- 乱塾時代 - 子育て合戦 (1977年、TBS)
- あにき (1977年、TBS) – 神山かい 役
- 土曜ワイド劇場 (ANB)
- 危険な童話 私は殺さない… (1977年10月22日)
高倉健初のテレビ連続度ドラマ「アニキ」の妹役に大原麗子。
大原麗子は18歳の時高倉健主演の網走番外地に出てから、高倉健のことを尊敬するようになっています。
この作品は高倉健さん自身思い出の作品だと述べています。
そんな中で倉本聰先生脚本のドラマで、高倉健さんの妹役出演依頼。
倉本先生からの電話で、最初に、ドラマには出演しない健さんをテレビ局が口説き落といいます。聞いてびっくり。
「実はね」と続いて、「健さんの妹役にはレイコちゃんを考えている」
私がこのオファーを聞いてびっくりして「健さんは何代も続いた人形町の鳶の頭で、妹とふたり暮らし。なかなか結婚しない妹を...」
「センセ、あたしやります。是非やらせてください、お願いします!」
と、倉本先生からの役の説明もそこそこに、大きな声で電話の向こうの先生に叫んでいたといいます。
東映時代に『網走番外地』で健さんとは5本も共演していたころから、大原さんは高倉健さんを男性の好き通り越して尊敬して目標のする人になって行ったと思います。
大原さんもそうですが、高倉健さんを尊敬する人は東映映画以外でも沢山いらっしゃいます。
高倉健さんも83歳で亡くなりましたが、本当に凄い人だと心から感じています。
改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。
この「アニキ」という作品で共演できたことはとても嬉しかったと思います。
大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていたっといいます。
また大原の遺品の中から、高倉の記事だけをまとめたスクラップが発見された。
そのスクラップには大きな文字で「好きです。尊敬しています」と書かれていました。
大原麗子さんのサントリーのCMは、1980年~1990年
「少し愛してながーく愛して」このキャッチフレーズで世の男性のハートを鷲しずかみにしたのです。
実はこのCMは1977年から大原麗子さんがスタートしているようになっていますが、この「少し愛して長ーく愛して」CMは1980年スタートなのです。
そう語るのは当時サントリーの宣伝部に在籍して実際に宣伝にたずさわってた、吉村信彦氏です。
現在は作家です。
79年頃には、三宅一生さんを起用した角瓶のCM、羊飼いの青年が出てくるオールドのCMが話題になりました。オールドのコピーは「誰がつくる、次の時代。」。企業としてのあり方や、社会にメッセージを投げかける広告の走りでした」翌1980年には女優、大原麗子さんを起用した「すこし愛して、ながく愛して。」のコピーも記憶に残るサントリーレッドのCMがスタート。演出は名匠、市川崑監督。
吉村信彦氏によると当時の様子がうかがえます。
ですから大原麗子さんのCMは1980年スタートでCMは1990年まで続いています。
しっとりした美貌(びぼう)の中に、気丈で無邪気面が浮かび上がり、視聴者男性の心を鷲掴(わしづか)にしたと言われています。
このCMはレッドからオールドへと引き継がれ、続編も制作されてオールドは当時、単一ブランドの年間ウイスキー販売量の世界記録を樹立し、現在も破られていないといいますから、いかに大原麗子さんの効果が凄いかがわかります。
これらのCMの企画は、当時CMプランナーとして活躍していた藤井達朗さん。
演出は、有名な実力のある映画監督の市川崑さんです。
市村崑監督は映画「獄門島」から、大原さんのサントリーのCMで13年間も仕事でお世話になっています。
大原さんは1992年で「市川崑監督の喜寿を祝う会」で、お祝いを述べられています。
先生のお仕事に初めて参加させていただいたのは、『獄門島』でした。それから『火の鳥』 『おはん』、13年間にわたるサントリーCM.....と、ごいっしょさせていただきました」
映画「獄門島」が1977年ですから、そこから1990年まで、お世話になっているから、1977年~1990年を数えると13年になります。
そこから、1977年にCMが始まったと言われています。
スポンサーリンク
1978年(31歳)の大原麗子
この年に渡瀬恒彦さんと離婚
離婚理由は
大原麗子さんは1978年2月14日にマスコミ各社に渡瀬さんと前日の2月13日に正式に離婚した旨の声明文を発表されています。
恒彦さんと私はけっして憎み合って別れたのではない。夫婦という絆は切れても私は恒彦さんを男性として人間として心から尊敬しています…
とつづられていました。
翌日の2月15日、ドラマのロケ先である、北海道旭川市郊外の湧駒別温泉の旅館のロビーでの取材に対しても、
離婚を考えだしたのは去年夏頃から。今年1月になって彼から子どもを産むか、仕事をとるかと迫られた
とあかしています。
そして私はどうしても子どもをつくる方をとることができなかった
と話しています。
一方渡瀬さんは同日、都内のテレビ局近くの喫茶店で記者に囲まれていました。
彼女は僕が女優として認めている数少ない一人。だから、仕事をやめろとは言えなかった。彼女をちゃんと包んでやれなかったのが原因です
と、明かしていますが、今一つ離婚原因がはっきりしない。
嫁姑の確執は
2人が結婚してからどちらも仕事が忙しく、それから4年半後、離婚に至るわけですが、決定的な理由は今ひとつはっきりしなかったのです。
ただ当時、渡瀬さんの母との嫁姑の確執があったという話がありました。
1975年8月、大原さんはギラン・バレー症候群にかかり東大病院に入院した当時、渡瀬さんは関西での仕事が多く、京都でマンション暮らしをしていて撮影の合間をぬって上京し、看病したのです。
半年後に退院するのですが大原さんはすぐ仕事に復帰してしまいます。
それが渡瀬さんの母親には不満だったのです。
仕事を休んで京都で一緒に暮らすべきだと公言したといいます。
息子が仕事の合間をぬって、看病したのに退院したと思ったらすぐ、仕事をはじめたからお母さんは面白くなかったのでしょう。
お母さんは、お兄さんの渡哲也さん夫婦と比較してしまって大原さんに強く当たって確執が生まれていったと推測します。
大原さんは東京・成城の自宅で渡瀬さんのお母さんと一緒に暮らしていましたが、仲は悪くなる一方…
見かねた渡瀬さんは京都に一軒家を借りて母親を呼び寄せています。
時間を駆ければ、修復できるかもしれないと淡い期待を抱いていましたが、その日は来ませんでした。
このようなことは世間でよくある事だと思います。
お母さんからすれば嫁さんの方から家庭に入って息子の世話をしてほしいと願う、そう思うのは当然かもしれますんがで、そこは人気の大女優です。
一般人のお嫁さんを貰うとはわけが違うと思います。
映画「男はつらいよ・噂の寅次郎」マドンナ役で出演。
同年、私の大好きな映画「男はつらいよ・噂の寅次郎」にマドンナ役で出演されています。
著者としては大原麗子さんが、寅さんで、マドンナはNO1だと思います。
大原麗子さんはこの年に渡瀬恒彦さんと離婚したばかりに、映画でも離婚する役どころです。
現実とだぶってしまうその心境を思うと何となく切なくなります。
そんな素振りも見せない大原麗子さんは自身も述べているように、私は女優ではなく俳優だと、きっぱりいっています。
大原さん演じる(早苗)さんが昼ご飯を食べている、所を寅さんが見られて恥ずかしいから見ないでと、照れているのが、ほほえまし感じがしていいでね!
寅さんは最初は怖い人だと思っていたという。
時間がたつにつれて寅さんの優しさが分かり、帰り際に寅さん好きよという、場面のしぐさは本当に可愛いくて魅力的な大原麗子さんです。
大原麗子さんの小悪魔的魅力があり可愛らしさもあり、雰囲気に存在感がる女優さんは大原さんだけだと思います。
- 柳生一族の陰謀 (1978年、東映) – 出雲の阿国 役
- 火の鳥 (1978年、東宝) – ヒナク 役
- 男はつらいよシリーズ (松竹)
- 男はつらいよ 噂の寅次郎 (1978年) – 荒川早苗 役
- さそり座の女(1978年6月10日)
- いのちの絶唱 (1978年、NTV)
- 愛がわたしを(1978年、TBS)
- 火の航跡 (1978年、CX)c) ※文化庁芸術祭優秀賞受賞
渡瀬恒彦さんと離婚したばかりだと言うのにこれだけ沢山の映画やドラマに出演されているとは、本当にこの仕事が好きなんだと思います。