スポンサーリンク
美人女優大原麗子が好感度NO1となぜ言われたか?全盛期はいつだったのかを出演作で振り返って考察してみた
それは1980年から1990年まで続いたサントリーのコマーシャルです。
「少し愛して、ながーく愛して」キャッチフレーズのサントリーのCMです。
大原麗子さんが出演したサントリーレッドとオールドのCM、1980年3月放映の第1作目、『雷篇』と名付けられたものから、1990年9月の『ニューヨーク篇』まで、10年間に27作品が放映されました。
このCMシリーズが開始されたとき、大原さんは33才、そして、終了は44才の誕生日を迎える頃でした。
姿の見えない亭主に、泣いたり、笑ったり、怒ったり、表情と仕草のみで情緒豊かに「妻」を演じる大原さん。
このCMの演出を手がけた市川崑監督は、彼女が思うがままに演技をさせていたそうです。
彼女の身内の方の証言にもあるように、このCMに写っているのは「そのままの姉、大原麗子」。
このCMシリーズは33歳からの10年間、その時々の「素」の彼女をストレートに伝える「記録映画」のような存在です。
女性タレントでは、「大原麗子」が1位、なんと通算13回1位を獲得しています。
1980年~1990年までの長きにわたって、「少し愛して、長~く愛して」のキャッチコピーで知られるサントリーレッドの広告に出演していたことも影響していると思われます。
鈴木敏夫スタジオジブリ代表取締役プロデューサー
このサントリーのCMは大原麗子の本当の意味で真の代表作だとのべています。
映画やドラマ、CM等で長きにわたり時代を一世を風靡したことで、通算13回で好感度NO1に選ばれたことで大原麗子は好感度NO1と呼ばれるようになったのです。
大原麗子の全盛期はいつだったのかを作品で振り返って考察して見たいと思います。
大原麗子の全盛期は、1970年(23歳)から1971年(24歳)の2年間が全盛期だと思われます、そのわけを説明します。
大原麗子は高校を卒業した1964年、NHKの新人オーディションに合格、同年TVドラマ『幸福試験』で芸能界デビュー。
夜の青春”シリーズでしたたかな女を演じ人気をえています。
大原麗子・プロフィール
- 名 前:大原麗子・(飯塚麗子)
- 生年月日: 1946年11月3日
- 没年月日:2009年8月3日(62歳没)
- 身長: 157㎝
- 出身地:東京都文京区
- カテゴリ: 女優
- デビュー:1964年(昭和39年)テレビドラマ「幸福試験」(NHK)でデビユー
- 学 歴:北豊島高等学校卒業
- 家族: 夫(渡瀬恒彦)1973年~1978年 (森進一)1980年~1984年
- 血液型: AB型
- 干支(えと): 戌年(いぬ)
- 星座: さそり座
- 趣味/特技: 映画鑑賞 骨董品招集 読書
幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がった。
大原は女優になったあと、そこが目立たないように写真の撮られ方を気にしていた。
8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚し、自身は母に引き取られ、弟は父に引き取られています。
お父さんは娘は特に可愛がりますけど、大原麗子のお父さんは違ったたんですね。
女性は顔が大事だというのにそれを鼻が曲がるほど殴るというのは尋常じゃあないと思います。
- 母・俊子(1917〜2012)
- 生涯を通じて麗子の心の支えだった。麗子が女優を目指したきっかけは、母に恩返しをして楽をさせたかったため。2人でよく旅行に行った。麗子は晩年まで母親のことを気にかけていた森進一との離婚後、父親を憎み、大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の飯塚姓にしています。
1970年『三匹の牝蜂』で初共演した俳優・渡瀬恒彦とすぐに意気投合し1973年(昭和48年)9月に渡瀬と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。
渡瀬と結婚していた頃、渡瀬の子供を身籠ったが、子宮外妊娠だったため胎児が死亡した。
渡瀬と離婚したあとも、渡瀬のことが好きだったという。
渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。
最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬との共演で、2004年の「十津川警部シリーズ」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。
この渡瀬恒彦とのドラマが大原麗子の遺作になっています。
1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。
森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返って話しています。
森と結婚していた頃、子供を欲しがっていた森に大原の弟・政光が「離婚して他の女性と子供を作ってください」と頼み、約一年後、森は大原との離婚を決意したという。
なお、2019年に政光は、大原が結婚から2年たって森の子供を身籠ったが、仕事を優先させて堕胎したと告白したています。
大原の死去後のお別れ会には森と渡瀬の元夫2人も出席したのです。
大原麗子は、渡瀬恒彦と森進一とも結婚して結果的には別れて女優の道を選びましたが、やはり結婚して女性として幸せな生活を夢見ていたと感じます。これもまた大原麗子の一面だと思います。
高倉健とのエピソード
1986年に自宅を新築した時、高倉から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。
高倉から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。
「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。
大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。
1992年にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。
ギャラクシー賞奨励賞を受賞。
大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。
後年大原が亡くなった日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。
また大原の遺品の中から、高倉の記事だけをまとめたスクラップが発見された。
そのスクラップには大きな文字で「好きです。尊敬しています」と書かれていたといいます。
手術と活動休止
大原麗子は47歳の時には乳がん手術を受けています。
1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板したその後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになった。
同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止しています。
2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することはないとっています。
大原麗子死去
2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。
62歳だった。
8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子、石井ふく子、浅丘ルリ子らが発起人となり元夫である渡瀬恒彦や森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、堺正章、井上順、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。
大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かしたています。
また高倉健は、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。
その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという墓所は世田谷区の妙壽寺。
戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。
「愛されていた」と語りかけた森光子さんの弔辞(発行人代表)
姉のように慕われていた森光子さんは「美しくて才気があって、でも寂しがりやでみんなにキツいことを言ったりもするハキハキした女優さん。とても素晴らしい女優人生だったと思います」と語りかけています。
「率直さが絆の深さを感じさせた」と浅丘ルリ子さんの弔辞(友人代表)
浅丘ルリ子さんは、大原さんとは30年来の友人で「麗子を浅丘さんのうちの家族にして。一番下の妹にして」と言っていたと明かし、家族ぐるみの付き合いもあって浅丘さんのご両親や姉の最期にも立ち会ってくれたと語りました。
最後は「私の妹、麗子へ。心安らかに眠ってください」とお別れの言葉を伝えています。
スポンサーリンク
まとめ
大原さん自身も自らの仕事への姿勢について、男はつらいよシリーズの出演作
『男はつらいよ 寅次郎真実一路』の会見で「最近は遺作だなと思ってやってるの。いつ死んでもいいと。自分らしく自由に生きたい。仕事は限界のない自己闘争。心も体も自由に」と述べています。
演出家のテリー伊藤は「日本で“小悪魔”が最も似合う女優。
マスコミは孤独死って書いてるけど、彼女の実績をみてほしい」と大原の実績を強調し、孤独死との見方に反論しています。
わたしも最後は病気と闘いながらも女優という職業に生きた人生であると思います。
これだけの実績を残しCMから流れてきたあのハスキーな声と可愛らしい姿はいつまでも私たちの脳裡から消え去ることはないと思います。
最後までご覧くださり有難うございました。